ファトフ・アリー・シャーとは? わかりやすく解説

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ファトフ・アリー・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 04:09 UTC 版)

ファトフ・アリー・シャー
فتح على شاه قاجار
Fath Ali Shah
ガージャール朝
シャー
在位 1797年6月17日 - 1834年10月23日
別号 シャーハンシャー

全名 ファトフ・アリー・シャー
出生 1772年9月5日
崇高なる国ペルシアダームガーン
死去 1834年10月23日(62歳)
崇高なる国ペルシアイスファハーン
埋葬 イランゴム、ファティマ・マスメフ廟
子女 モハンマド・アリー・ミールザー
アッバース・ミールザー
モハンマド・タキ・ミールザー
アリクリ・ミールザー
ほか
家名 ガージャール家
王朝 ガージャール朝
父親 フサイン・クリー・ハーン
母親 アガ・ハジ
宗教 イスラム教シーア派
サイン
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ロシア・ペルシャ戦争、ロシアの画家Franz Roubaud作。

ファトフ・アリー・シャー1772年9月5日 - 1834年10月23日ペルシャ語で、 فتح على شاه قاجار)は、ガージャール朝第2代シャー

生涯

即位

1797年6月17日から死亡するまで、ペルシアを統治したアーガー・モハンマド・シャーの甥にあたり、アーガー自身が5歳(もしくは13歳)の時に去勢されていたため、彼が暗殺されるとシャーとして即位した。

ファトフ・アリーは、ザンド朝時代より15年間財務大臣を務めたハッジ・イブラーヒーム・ハーンを辞任させた。

ファトフ・アリーの時代は、ペルシャ絵画の復興期であり、精巧な宮廷文化も復興した。特に、この時代には、ファトフ・アリーの庇護の下、他のイスラーム王朝には類を見ない肖像画や大規模な油絵が描かれた時代でもあった。また、ファトフ・アリーは、戴冠式の際に使われた椅子を含めた王家の象徴を作った。この椅子は、ファトフ・アリー以後のシャーも使った。また、ペルシャ語で تاج كيانىと呼ばれる王冠を作った。この王冠は、真珠やその他の宝石で飾られていた。

ロシア・イラン戦争

ファトフ・アリー統治の初期は、ロシア帝国グルジアへの南下を開始していた時期であった。グルジアは、もともと、ペルシャが自らの勢力圏として定めていた地域であった。1804年、ファトフ・アリーがグルジアへの進出を開始したことにより、ロシアとペルシャの間で戦争が勃発した(第一次ロシア・ペルシア戦争)。この開戦は、シーア派聖職者の反対を押し切って強行された。戦争の初期は、ペルシャ軍が優勢に展開していたが、戦局は、武器や大砲といった面で近代的であったロシア軍優勢に変化していった。

その後、ロシアは、ペルシャへ継続して戦争を展開し、ペルシャはイギリスと接近することによって、ロシアへの牽制を図った。しかし、イギリスはナポレオン戦争によって関心をフランスに向けていたことから、ペルシャの要請を拒否することとなった。その結果、ペルシャはフランスとの接近を図った。1807年、フィンケンシュタイン条約(en)が締結されたが、この協定は、履行されることはなかった。フランスがロシアとの和平を実現してしまったからである。

そのころ、スコットランド人ジョン・マルコム(en)がペルシャに大使として赴任し、イギリスがペルシャを支援する約束を取り付けたが、その約束も反故にされ、逆に、ペルシャ軍のグルジアからの撤退を要請した。1813年には、ロシア軍がタブリーズに入城するにいたり、ゴレスターン条約en)がロシアとの間で締結された。この条約により、現在のグルジアやアゼルバイジャンをロシアに割譲することとなり、黒海への入り口が絶たれ、さらに、国境貿易による5%の関税の設置が決まった。ゴレスターン条約は、ペルシャとヨーロッパ諸国との間での不平等な関係の始まりであった。また、この条約では、国境線に対する取り決めが不明瞭だったこともあり、ロシアとペルシャの間では、緊張関係が継続することとなった。

その結果、ペルシャ国内では、ロシアの不正義を訴えるウラマー層の不満が湧き上がった。また、当時のペルシャは土地に対する収穫税を収穫の5%から10%に引き上げるなど、農民の間でも不満が噴出していった。このような国内情勢を利用したファトフ・アリーは、再び、ロシアとの戦端を開いた(第二次ロシア・ペルシア戦争)。しかし、ロシアとの戦力差は圧倒的に開いており、トルコマーンチャーイ条約を締結することによって、戦争は、ペルシャの敗戦で終結した。その結果、現在のアルメニアナヒチェヴァンがロシアに割譲されることとなった。また、カスピ海における艦船の航行が禁止され、莫大な賠償金がペルシャからロシアに支払われることとなった。

ファトフ・アリーは、自らとロシアとの戦争を本として編纂するために、多くの作家と画家を雇っている。これは、ファトフ・アリーがフェルドウスィーシャー・ナーメに触発されたことにより編纂が開始され、ガージャール朝時代の重要な文献となっている。

1833年10月25日、寵愛していた王子アッバース・ミールザー(en)を失った。ファトフ・アリーは孫のモハンマドを王太子にすえた。これが後のモハンマド・シャーである。翌年、ファトフ・アリーは、死亡した。

ファトフ・アリーは、158人の妻妾と260人の子どもを持ったと伝えられている。また、ファトフ・アリーには25枚の肖像画が残されており、痩せ型の体型に、腰まで伸びるあごひげを貯えていた姿で描写された。



ファトフ・アリー・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:24 UTC 版)

ガージャール朝」の記事における「ファトフ・アリー・シャー」の解説

アーカー・ムハンマド・ハーン幼時去勢されていたため子がなかった。大宰相(サドレ・アーザム)のハジ・エブラーヒーム(fa)・キャラーンタル・シーラーズィーはアーカー・ムハンマド・ハーン死去によって瓦解する兵力再編成しファールス太守であったシャーの甥ソルターン・バーバー・ハーンをテヘラン迎えた。これが第2代ファトフ・アリー・シャー(1797年7月28日即位翌年3月19日戴冠)である。ファトフ・アリー・シャーはイラン国内での評判は必ずしも高くない彼の生涯特筆すべきものはハレム規模大きかったことであり、約100人の子もがいたとされる。 ファトフ・アリー・シャーは即位早々にアーカー・ムハンマド・ハーン盟友たる有力部族長たち、アフシャール朝ザンド朝残党叔父兄弟などの一族からの挑戦を受けることになった1798年中にアゼルバイジャンにおいてクルドのサーデグ・ハーン・シャガーギー、南部のモハンマド・ハーン・ザンド、弟ホセインゴリー・ハーンなど)。ファトフ・アリー・シャーはこれらを一つ一つ退け、ガージャール王権確立する。 また1801年4月には建国功臣大宰相エブラーヒーム・キャラーンタル・シーラーズィーを罷免、のちに処刑している。これはザンド朝以降イラン東部南部広大な土地所有したペルシア人文人官僚タージーク)らの基盤王権回収することをねらったのである同時に北西イランアゼルバイジャン官僚らによる陰謀という北西南東地方的権力闘争の面も持っていた。 このようにファトフ・アリー・シャーは王権の確立努めたが、ガージャール朝権力基盤たる部族長や一族の権力徹底的に削ぐことはできず、打撃与えたのちに懐柔する微温的選択をせざるを得なかった。地方統治のためにファトフ・アリー・シャーは徐々に自らの子各地太守任じて結束固めていく。もっとも顕著なものは太子アッバース・ミールザー(英語版)のタブリーズ太守への起用である。 これ以降ガージャール朝太子(ワーリー・アフド)はタブリーズ太守としてアゼルバイジャン常駐することになり、タブリーズガージャール朝事実上副都となった各地分封された王子らは任地において地方宮廷営んで土着の部族長らと関係を深めたその結果王権シャー代替わりごとに独立傾向の強い一族による挑戦を受けることになるのであるアーカー・ムハンマド・ハーンによるカフカズ回収作戦グルジアロシアへ接近させ、1800年東部グルジアロシア併合された。これを認めないガージャール朝ロシアとの争い1804年以降散発的な武力衝突となり、第一次ロシア・ペルシア戦争勃発する。この戦い指揮したのはアッバース・ミールザーであった。 彼はロシアとの争い通じて戦い都度部族民から編成される軍の近代化必要性実感兵制改革進め洋式軍ネザーメ・ジャディードを編成している。これがイランにおける近代化嚆矢いえよう。アッバース・ミールザーは連年アラス川越えて交戦しエレバン確保し戦争優勢に進めた1810年には宗主権イランへの返還を含む和平条約ロシアから申し出られたがこれを拒否、かえって1812年アスラーン・デジュの戦いロシア語版)で決定的な敗北喫してしまう。 この結果ナポレオン・ボナパルトロシア遠征によるヨーロッパ情勢急激な展開、とりわけティルジット条約瓦解によるイギリスロシア帝国接近背景に、イギリス仲介によりゴレスターン条約1813年9月13日調印)が締結されガージャール朝グルジアバクーなどアゼルバイジャン北半を失ったロシアカフカスを完全に掌握するために、コーカサス戦争1817年-1864年)を開始カフカズ西部でのロシア活動黙認したオスマン帝国との間にもオスマン・イラン戦争トルコ語版)の戦端開かれギリシャ独立戦争1821年-1829年)に忙殺されオスマン帝国圧倒して一時バグダードを落とす勢いであったが、こちらもイギリスの介入があり1823年7月28日エルズルム条約First Treaty)で終結した1826年第二次ロシア・ペルシア戦争勃発1828年トルコマーンチャーイ条約第二次ロシア・ペルシア戦争講和条約)が締結されカージャール朝イランロシアへアーザルバーイジャーン(タリシュ・ハン国(英語版))及びアルメニア(エレバン・ハン国(英語版)とナヒチェヴァン・ハン国(英語版)への宗主権承認)を割譲したが、この間1827年ロシアナヴァリノの海戦参戦したことをきっかけに、1828年オスマン帝国露土戦争 (1828年-1829年)始めると、1830年ナクシュバンディー教団イマーム国(英語版)を建国し、さらにクリミア戦争1853年-1856年)を挟んだことで、コーカサス戦争泥沼化した。 1847年5月31日エルズルム条約Second Treaty)により、1639年のガスレ・シーリーン条約英語版)の国境線が再確定された。

※この「ファトフ・アリー・シャー」の解説は、「ガージャール朝」の解説の一部です。
「ファトフ・アリー・シャー」を含む「ガージャール朝」の記事については、「ガージャール朝」の概要を参照ください。

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