アフガニスタン侵攻 (1979)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/04/23 11:09 UTC 版)
アフガニスタン侵攻(アフガニスタンしんこう)は、アフガニスタンに1978年に成立した共産主義政権を支える為に、1979年にソビエト連邦が軍隊をアフガニスタンへ進めて占領した事件。 ソ連・アフガン戦争と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内の戦闘は1979年の出兵から1989年の完全撤収まで10年に及んだ。
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概要


マルクス・レーニン主義
スターリン主義
マレンコフ · フルシチョフ
ブレジネフ · アンドロポフ
チェルネンコ · ゴルバチョフ
クレムリン · 赤の広場
ソビエト連邦共産党
チェーカー · ゲーペーウー
ソ連国家保安委員会
冷戦 · 8月クーデター · ソ連崩壊
ソ連政府はアフガニスタンに軍事介入することについては当初、国際関係上の影響を考慮して非常に慎重であった。それにも関わらず行動を起こした動機については様々な政治的な要因がある。
大きな要因として、まず当時アフガニスタン大統領であったアミーンは独裁的な政治を行って、独自の外交政策を展開したことが挙げられる。米国の情報機関と関わり、共産主義では否定されるはずの宗教聖職者との関係を強化した。これはソ連政府にはアフガニスタンの西側への転向の兆候と見られることとなった。アフガニスタンが転向することにより、ソ連の中央アジアにおける勢力圏を米国とイスラム主義勢力から防衛し、共産圏諸国へのソ連の国家的威信を維持する必要性が生じた。このことにより、ソ連政府は短期間で決着する軍事作戦を策定し、被害を最小限にとどめながらもアミーン政権を崩壊させることを狙って実行に移した。
また米国の軍事支援の影響もあった。当時の米国政府はパキスタンを経由して非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーンに提供していた。しかしこれら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは当時進行していた米ソデタントの動きからも不利益と判断された。ソ連政府は武装勢力の台頭やイスラム国家建国の動きに対して強い警戒感を持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動きを制御する必要性に直面していた。
もう一つの要因としてイスラム原理主義の動きから発生したイランでのイラン革命が挙げられる。革命でモハンマド・レザー・パフラヴィー国王政府が倒され、ホメイニを中心とする新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。なぜならアフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起こればソビエト連邦にも飛び火する危険性があったからである。アフガニスタンではイスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的、経済的な動機が十分にあった。これらの意見は、当時のソ連の指導者レオニード・ブレジネフが、ソ連は(おそらく連邦内の共和国を含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した公文書“ブレジネフ・ドクトリン”によって裏付けられている。その後イラン・イラク戦争が起きるが、これを最も援助させたのもソ連であった。
ソ連軍の戦略
まず、ソ連政府は、アミーン大統領がソ連軍派遣を要請したのを受けたのを利用して派遣部隊をアフガニスタンに進入させた。ソ連軍はアミーン大統領の拘束殺害をまず目的として宮殿への襲撃作戦を立案し、特殊部隊を投入して実行した。その後は親ソ的な新政権を樹立させてアフガニスタンを早急に安定化させ、部隊を長くとも半年程度で撤退させることを計画していた。しかし、その後、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化し、新政権の強い要望によってソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなってしまった。そのため、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進め、撤退後のアフガニスタンが安定するように努めた。
戦術




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