WRNY
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/18 00:40 UTC 版)
「エクスペリメンター出版」の記事における「WRNY」の解説
破産競売の直後、WRNYのラジオ局を引き継ぐために、アビエーション・ラジオ・ステーション社が設立された。新会社は、カーチス・エアロプレーン・アンド・モーター(英語版)の社長であるC・M・キーズが資金面でのバックアップを行った。競売に出ていた代理人のチェスター・カットヘルが社長を務め、ウォルター・レモンがゼネラル・マネージャーを務めた。同局の目標は飛行機の普及であった。連邦無線委員会は、局の免許の譲渡と局の変更を承認しなければならなかった。カットヘルは、彼とビジネスパートナーが局に費やす費用は最大で200万ドルであると述べ、委員会に周波数を増やしてほしいと要請した。委員会は、免許の譲渡と既存の局の改善を承認した。 1929年8月、アビエーション・ラジオはスタジオをルーズベルト・ホテルの一室から52番街西27番地に移転した。また、ニュージャージー州コイテスビルに自動周波数制御装置と新しいアンプを備えた1000ワットの送信機を設置した。これらのアップグレードにより、放送の範囲と音質が改善された。短波放送局の2XLAは、15,000ワットに出力を上げた。 番組の内容は大幅に変更された。ジャズ音楽は禁止され、航空と飛行士に関する番組に置き換えられた。女性の飛行士についての番組では、アメリア・エアハートが最近の大陸横断飛行について語った。このラジオ局では、飛行士向けの天気予報を毎時放送していた。 1928年以降のWRNYの周波数は1010キロサイクル(kHz)で、他の3つの放送局と周波数を共有していた。典型的な放送スケジュールでは、WRNYは午前10時から、WHNは午後1時30分から、WPAPは午後7時から放送を行い、最後にWRNYは午後9時30分から深夜0時まで放送を行った。カルバリーバプテスト教会が所有するWQAOは、日曜日に3番組、水曜日に1番組を放送した。WHNの所有者、メトロ-ゴールドウィン・メイヤーは、1933年に他の局の周波数使用権を購入し、WHNは1934年1月から1010kHzでフルタイムの放送を開始した。コールサインは後にWMGMに変更された。
※この「WRNY」の解説は、「エクスペリメンター出版」の解説の一部です。
「WRNY」を含む「エクスペリメンター出版」の記事については、「エクスペリメンター出版」の概要を参照ください。
WRNY
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/18 00:40 UTC 版)
「エクスペリメンター出版」の記事における「WRNY」の解説
1920年11月に、アメリカ初の商業ラジオ局であるピッツバーグのKDKAが放送を開始した。1925年までに全米に500以上のラジオ局が開局した。KDKAはウェスティングハウス・エレクトリック社がラジオ受信機の販売のために運営していた。ラジオ機器メーカーだけでなく、多くの出版社が放送局を始めていた。エクスペリメンター出版は、WRNYというコールサインで1160キロサイクル(kHz)で送信するラジオ局の免許を申請し、許可された(その後3年間で800kHz、1070kHz、970kHz、920kHz、1010kHzと変更した)。スタジオはニューヨークのルーズベルト・ホテル18階の一室で、ホテルの屋上に500ワットの送信機が設置された。最初の放送は1925年6月12日に行われ、ニューヨーク・タイムズ紙で報じられた。開局のスピーチをニューヨーク州選出の元上院議員チャンシー・デピュー(英語版)、続いて「ラジオの父」と呼ばれるリー・ド・フォレストが行った。これに続いて、音楽の生演奏が行われた。ニューヨーク・タイムズ紙は、放送の開始と終了を知らせる際に使用された、ヒューゴー・ガーンズバックが製作した信号発生器・スタカトーンに注目した。スタカトーンは、1924年3月の『プラクティカル・エレクトリックス』誌に記載された原始的な音楽シンセサイザーだった。エクスペリメンター出版は、ラジオ局と雑誌をお互いに宣伝するために利用した。各雑誌の表紙には、ラジオ局のコールサイン・WRNYが必ず表示された。 1927年の時点で、ニューヨーク都市圏には50以上のラジオ局と150万台のラジオ受信機があった。多くのラジオ局は、同じ周波数を共有し、放送時間をずらして放送していた。1912年に制定された電波法はラジオ放送には言及しておらず、ラジオ局を規制するのは州なのか連邦政府なのかが明らかではなかった。初期のラジオ受信機は非常に選択性が悪く、隣接する周波数を持つ局間で混信が発生して、頻繁に論争が起きていた。1926年11月、WRNY(800kHz)は送信施設をルーズベルト・ホテルからニュージャージー州コイテスビル(マンハッタンから川を挟んで真向かい)に移設した。これにより、WHN(830kHz)との間で混信が発生するようになり、WHN側は、WRNYは海賊放送局だと主張した。1927年、放送局を規制する権限を持つ連邦無線委員会(英語版)(FRC)が設立された。 ヒューゴー・ガーンズバックが最初にテレビについて書いたのは『モダン・エレクトリックス』1909年12月号であり、その後も彼の雑誌でテレビの技術的な進歩について報告していた。1925年までには、走査線が60本程度の機械式走査型テレビシステムが利用できるようになっていた。これらの機械式システムは、ホビイストがテレビ受信機を作ることができるほど簡単なものだった。ウラジミール・ツヴォルキンとフィロ・ファーンズワースは、現代のテレビの前身となる電子式走査システムを開発していた。このようなシステムが発売されるのは、これから10年後のことである。 1928年4月、パイロット・エレクトリック・マニュファクチャリングとWRNYは、その秋にテレビ放送を開始すると発表した。送信機器はパイロット社が提供することになった。パイロット社はテレビ受信機も販売していたが、エクスペリメンター出版の雑誌には読者が自分でテレビ受信機を作ることができる完全な設計書が掲載されていた。WRNYが使用したシステムは走査線が48本で、毎秒7.5フレームだった。画像は約1.5インチ四方だった。この低解像度の画像(音声なし)は、AMラジオ局の5kHzの音声帯域幅で伝送することができた(NTSCの走査線525本の標準画質のテレビ信号は、帯域幅が6MHzである)。最初の試験放送は1928年8月12日だった。他の放送局はそれ以前にもテレビ放送を行っていたが、定期的に番組を放送したのはWRNYが初めてだった。ヒューゴー・ガーンズバックは、当時ニューヨーク地域には約2000台のテレビ受信機があったと推定している。
※この「WRNY」の解説は、「エクスペリメンター出版」の解説の一部です。
「WRNY」を含む「エクスペリメンター出版」の記事については、「エクスペリメンター出版」の概要を参照ください。
- WRNYのページへのリンク