SF作家・雑誌編集者
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「ヒューゴー・ガーンズバック」の記事における「SF作家・雑誌編集者」の解説
『モダン・エレクトリックス』誌(1911年4月号)で予定していた記事が入稿されない事態が起き、そのページを埋めるために、編集者であるガーンズバック自身が執筆したのが、近未来SF小説『ラルフ124C41+ ──2660年のロマンス』であった。これが評判となり、1年間の連載となった。のちの1926年、ガーンズバックは世界初のSF専門誌『アメージング・ストーリーズ』を創刊した。同誌は、過去の優れたSF作品の再録や投書欄、読者の作品コンテストが人気を集めた。これによりガーンズバックは、“アメリカSFの父”“現代SFの父”と呼ばれるようになった。 1925年にはラジオ局WRNYを設立し、マンハッタンのルーズベルト・ホテルの18階から放送していた。1928年にはテレビ放送を行い、世界初のテレビ局の1つとなった。 ガーンズバックは資産があったが、事業としてニューヨーク初のテレビ放送の実験を行ったり自分の給料を高くする一方で、作家や商売相手への支払いが遅れていた。1929年に印刷所と紙問屋から訴えられ、『アメージング・ストーリーズ』などを出版していたエクスペリメンター出版は破産し、人手に渡った。ガーンズバックはすぐに新しい会社・ガーンズバック出版を設立し、『サイエンス・ワンダー・ストーリーズ』など新しいSF雑誌を3つ、無線雑誌『ラジオクラフト』を立ち上げた。 ガーンズバックは1930年に『サイエンス・ワンダー・ストーリーズ』と『エア・ワンダー・ストーリーズ』を合併させて『ワンダー・ストーリーズ』を創った。『アメージング・ストーリーズ』同様に、投書欄に誌面を大きく取り、SFファンの活動を発展させた。しかし、後発のSF雑誌『アスタウンディング』が発展するにつれ、『ワンダー・ストーリーズ』の読者は減少していった。さらに、原稿料の安さや支払いの遅さといった問題があり、作家のドナルド・A・ウォルハイムらにより訴えられた。1936年にガーンズバックは『ワンダー・ストーリーズ』を売却し、SFから離れて無線雑誌『ラジオ=クラフト』(後に『ラジオ=エレクトロニクス』に改題)と、1933年に創刊した性教育に対する科学的取り組みを扱った雑誌『セクソロジスト』の2つに注力していった。 1953年、世界SF大会にてSF功労賞(1993年にヒューゴー賞と改名)が創設され、1960年にはガーンズバック自身に特別賞が贈られた。
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