SF作家としての経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 20:53 UTC 版)
「ジェイムズ・ティプトリー・Jr.」の記事における「SF作家としての経歴」の解説
自分の今後について特に確信もないまま、SFを書き始めた。ペンネームとしてジェイムズ・ティプトリー・Jrを使い始めたのは1967年である。「ティプトリー」はマーマレードの瓶にあった言葉で、"Jr." をつけたのは夫のアイデアである。インタビューで彼女は「男性的な名前はうまい擬装のように思えた。男の方が落とされないという感じがした。これまでの人生で女だからという理由で職業的に散々ひどい目にあってきたから」と語っている。 1968年、作家としてデビュー。最初に活字になったのはアナログ誌に掲載された『セールスマンの誕生』だが、博士試験中に書いていた4編がすべて採用されてしまったため、本当の処女作がどれなのかは良く分からない。その後、骨太な作品を発表する人気作家となり、筆名が男性名なこともあり「もっとも男性らしいSF作家」と評価された。男性と女性の性を中心的なテーマにした、短編ながら深い味わいを持つ作品が多いことが特徴。 このペンネームは1970年代後半までうまく機能していた。「ティプトリー」がペンネームであることは知られていたが、それは諜報関係で働いているためだと理解されていた。読者も編集者も、「ティプトリー」は男だと仮定することが一般的だった。中には作品テーマから女性ではないかと推測する者もいた。 「ティプトリー」は公の場に姿を見せることなく、ファンや他のSF作家とは手紙で定期的にやりとりしていた。プロフィールの詳細を聞かれた場合、性別以外は率直に明かしていた。上にあるようなこと(陸軍航空軍にいたことや博士号を取得したことなど)は「ティプトリー」の書いた手紙でも触れられていたし、公式の経歴にも書かれていた。 母が1976年に亡くなると、「ティプトリー」として母も作家だったがシカゴで亡くなったことを明かしている。そこでファンの間でティプトリーの母親の死亡記事探しが始まり、間もなく全てが明らかになった。何人かの有名なSF作家は当惑させられることになった。ロバート・シルヴァーバーグは『愛はさだめ、さだめは死』の序文を書く際に、同短編集に収録された短編を吟味した上でティプトリーは決して女ではないと結論付けていた。ハーラン・エリスンは自身のアンソロジー Again, Dangerous Visions に収録したティプトリー作品の紹介で「今年一番の女流作家がケイト・ウィルヘルムなら、それを迎え撃つ男性作家はティプトリーである」と書いていた。シルヴァーバーグの文章(題名が「ティプトリーとはだれ、はたまた何者?」)はティプトリーの性別が議論の対象となっていたことを明確に示しているという一面もある。シオドア・スタージョンは、「ジェイムズ・ティプトリー・Jrを例外とすれば、最近のSF作家でこれはと思うのは、女性作家ばかりだ」とあるSF大会でスピーチしていた[要出典]。 性別が明らかになっても、その才能の評価については本人が思っていたほど悪影響がなかった。実際、1977年には別のペンネームであるラクーナ・シェルドン名義の「ラセンウジバエ解決法」でネビュラ賞を受賞している。
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