MP4-2とは? わかりやすく解説

マクラーレン・MP4/2

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/02 13:56 UTC 版)

マクラーレン・MP4/2
マクラーレン・MP4/2B
マクラーレン・MP4/2C
MP4/2C[1]
カテゴリー F1
コンストラクター マクラーレン
デザイナー ジョン・バーナード
先代 マクラーレン・MP4/1E
後継 マクラーレン・MP4/3
主要諸元[2]
シャシー カーボンファイバー ハニカム モノコック
エンジン TAG ポルシェ TTE PO1, 1,499 cc (91.5 cu in), V6, ターボ, ミッドエンジン, 縦置き
トランスミッション マクラーレン / ヒューランド 5速 MT
燃料 シェル
タイヤ 1984年: ミシュラン
1985年 / 1986年: グッドイヤー
主要成績
チーム マールボロ マクラーレン・インターナショナル
ドライバー アラン・プロスト
ニキ・ラウダ
ケケ・ロズベルグ
ジョン・ワトソン
コンストラクターズタイトル 2(1984年, 1985年
ドライバーズタイトル 3(ニキ・ラウダ1984年,
アラン・プロスト1985年, 1986年
初戦 1984年ブラジルグランプリ
出走 優勝 ポール Fラップ
48 22 7 16
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マクラーレン MP4/2 (McLaren MP4/2) は、マクラーレンF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カーで、ジョン・バーナードが設計した。1984年から1986年まで使用された。

コンストラクターズチャンピオンを2度(1984年、1985年)、ドライバーズチャンピオンを3度(1984年:ニキ・ラウダ、1985年、1986年:アラン・プロスト)獲得した。

エンジンは一貫して、共同オーナーのマンスール・オジェ率いるテクニーク・ダバンギャルド (TAG) の資金を得てポルシェに開発を委託したターボエンジンを搭載した。このエンジンのバッジネームは「TAG」であるが、しばしば「TAGポルシェ」と通称される。

MP4/2

ダラスで開催された1984年アメリカグランプリでMP4/2を駆るニキ・ラウダ

前年(1983年)の終盤よりTAGのターボエンジンを使用していたが、レース中に使用することが出来る燃料が250リットルから220リットルへと減少した1984年シーズンのために新設計したのがMP4/2である。

搭載燃料量の制限により、エンジンの燃費性能が問われることになったが、ボッシュ製のエンジン・マネージメントシステムを搭載するTAGエンジンは、最も燃費に優れたパッケージとなった。通常のガソリンではなく、トルエンをベースにした燃料を使用することにより対ノッキング性能と燃費を両立させることを目指した。

前作のMP4/1と同様、カーボン製のモノコックはマクラーレンが設計し、アメリカのハーキュリーズが製造した[3]。MP4/2は合計4台が製造されたが、最後に製造された4号車(MP4/2-4)はテスト専用車となったため、最初に製造された3台だけで1984年シーズンの全てのレースを戦った[3]。なお、タイヤは4シーズンに渡って供給を受けていたミシュランが、チャンピオンを獲得したにもかかわらず同年限りでF1からの撤退を決定した。

このシーズンは全16戦のうちアラン・プロストが7勝、ニキ・ラウダが5勝の計12勝をあげ、コンストラクターズタイトルを獲得した。ドライバーズタイトルはチームメイト同士の争いになり、最終戦でラウダがプロストを0.5ポイント[4]上回り、ワールドチャンピオンとなった。マクラーレンチームは、ふたりのドライバーが毎レースマシンを壊すことなくピットに戻ってくるので、シャシーにかけていた保険を解約したという逸話がある[5]。 ラウダはシーズンを通して、MP4/2-1号車シャシーで、走り通した。

記録(1984年)

No. ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ポイント ランキング
BRA
RSA
BEL
SMR
FRA
MON
CAN
DET
USA
GBR
GER
AUT
NED
ITA
EUR
POR
1984 7 プロスト 1 2 Ret 1 7 1 3 4 Ret Ret 1 Ret 1 Ret 1 1 143.5 1位
8 ラウダ Ret 1 Ret Ret 1 Ret 2 Ret Ret 1 2 1 2 1 4 2

MP4/2B

1985年に向け、車両規則に合わせた修正を加え、ボディワークのデザインを変更したのがMP4/2Bである。前年との相違点として、タイヤがミシュランの撤退によりこのシーズンからグッドイヤーを使用するようになった。空力では、リヤウィング前方のウイングレットがレギュレーションにより禁止となったため廃止された。リアサスペンションはプッシュロッド化され、これらの変更は1984年に使用していたシャシーそのものに改造を加えてMP4/2Bとされた。前年はテストマシンとして使用されていたMP4/2の4号車(MP4/2-4)もMP4/2Bに改造され(MP4/2B-4)[3]、開幕戦のブラジルグランプリで実戦に初めて投入された。このレースには、新規に作成されたシャシー、MP4/2B-5も持ち込まれた[6]

第15戦の南アフリカグランプリで新たなシャシー、MP4/2B-6が投入された。この車体は、完全にマクラーレンのファクトリーで作成された初のシャシーである[6]

このシーズンは前年ほど万全ではなく、ラウダのマシンにメカニカルトラブルが頻発した。シーズン中盤まではフェラーリミケーレ・アルボレートにシリーズポイントをリードされたが、シーズン終盤で盛り返し最終的にシーズン5勝を挙げたプロストが自身初のドライバーズタイトルを獲得、チームはコンストラクターズタイトルも連覇した。一方でラウダは同年をもって引退すると発表した。

記録(1985年)

No. ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ポイント ランキング
BRA
POR
SMR
MON
CAN
DET
FRA
GBR
GER
AUT
NED
ITA
BEL
EUR
RSA
AUS
1985 1 ラウダ Ret Ret 4 Ret Ret Ret Ret Ret 5 Ret 1 Ret DNS Inj Ret Ret 90 1位
1 ワトソン 7
2 プロスト 1 Ret DSQ 1 3 Ret 3 1 2 1 2 1 3 4 3 Ret

MP4/2C

1986年シーズンに向け、更に改良が加えられたのがMP4/2Cである。

前年用のMP4/2Bとよく似ているが、モノコックは新造されており、六角断面に戻されている。これにともなってターボの吸気口がサイドポッド側面から、モノコックの六角断面化に因って生まれたコクピット側面の隙間へと変更された。レギュレーションにより燃料タンク容量が195リットルに制限されたことに伴いタンクの小型化と低重心化が図られ、ドライバーの着座位置・姿勢なども変更されている。ギアボックスは前年までの5速から6速化された[3]。MP4/2Cは、5台が製造された[7]

同年はウィリアムズ・ホンダが予選から速く、コンストラクターズタイトルを譲ることになったが、ドライバーズタイトルはプロストが確実に上位入賞を続け、最終戦オーストラリアGPでシーズン4勝目を挙げるとウィリアムズの2人を獲得ポイントで逆転し連覇を達成した。なお、マシンをデザインしたジョン・バーナードは1985年終盤からロン・デニスが目論んでいたファクトリーの新設プロジェクトで意見が対立したことに端を発して2人の関係が悪化。バーナードは翌年用のMP4/3の基本設計を終えたのを置き土産に1986年末にフェラーリへと移籍し、マクラーレンを去った[8]

MP4/2Cは、第14戦ポルトガルGPでのケケ・ロズベルグ車だけ、通常のマールボロの赤色部分が、新商品「マールボロライト」のPRのため黄色に塗られている1戦限りの特別仕様車で出走した[9]

記録(1986年)

No. ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ポイント ランキング
BRA
ESP
SMR
MON
BEL
CAN
DET
FRA
GBR
GER
HUN
AUT
ITA
POR
MEX
AUS
1986 1 プロスト Ret 3 1 1 6 2 3 2 3 6 Ret 1 DSQ 2 2 1 96 2位
2 ロズベルグ Ret 4 5 2 Ret 4 Ret 4 Ret 5 Ret 9 4 Ret Ret Ret

脚注

  1. ^ この車両は86年型MP4/2Cに85年のラウダ車のマーキングを展示用に施したもの。
  2. ^ McLaren MP4/2 Stats F1
  3. ^ a b c d Doug Nye, McLaren: The Grand Prix, CanAm and Indy cars (New Edition), Hazleton Publishing, 1988 pp.239-ff ISBN 0-905138-54-6
  4. ^ ポイント差が中途半端なのは、同年のモナコGPが豪雨のため決勝レースを途中で打ち切った関係で、入賞ポイントが半分とされたため。このレースで優勝したプロストのポイントも半分(9→4.5ポイント)とされたことによる。
  5. ^ アラン・ヘンリー『ニキ・ラウダ/不屈のチャンピオン』 森岡茂憲訳、ソニー・マガジンズ、1991年、129頁。
  6. ^ a b Doug Nye, McLaren: The Grand Prix, CanAm and Indy cars (New Edition), Hazleton Publishing, 1988 Appendix3 ISBN 0-905138-54-6
  7. ^ Hamilton, Maurice (ed.) (1986). AUTOCOURSE 1986-87. Hazleton Publishing. pp. p229. ISBN 0-905138-44-9 
  8. ^ 謎のジョン・バーナード GPX '87サンマリノGP号 20-21頁 1987年5月20日発行
  9. ^ Keke Rosberg driving the one-off Marlboro Lights McLaren ESPNF1

MP4/2

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 09:19 UTC 版)

マクラーレン・MP4/2」の記事における「MP4/2」の解説

前年1983年)の終盤よりTAGターボエンジン使用していたが、レース中に使用することが出来燃料250リットルから220リットルへと減少した1984年シーズンのために新設計したのがMP4/2である。 搭載燃料量の制限により、エンジン燃費性能問われることになったが、ボッシュ製のエンジン・マネージメントシステム搭載するTAGエンジンは、最も燃費優れたパッケージとなった。 前モデルMP4/1と同様、カーボン製のモノコックマクラーレン設計しアメリカハーキュリーズ製造した。MP4/2は合計4台が製造されたが、最後に製造され4号車(MP4/2-4)はテスト専用車となったため、最初に製造された3台だけで1984年シーズン全てのレース戦った。なお、タイヤは4シーズン渡って供給受けていたミシュランが、チャンピオン獲得したにもかかわらず、このシーズンでF1から撤退した。 このシーズンは全16戦のうちアラン・プロストが7勝、ニキ・ラウダが5勝の計12勝をあげ、コンストラクターズタイトルを獲得した。ドライバーズタイトルはチームメイト同士争いになり、最終戦ラウダプロスト0.5ポイント上回りワールドチャンピオンとなった。マクラーレンチームは、ふたりのドライバーが毎レースマシンを壊すことなくピット戻ってくるので、シャシーにかけていた保険解約したという逸話がある。

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