AFW誕生の経緯
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「RING of RED」の記事における「AFW誕生の経緯」の解説
第二次世界大戦において、戦場の様相は一変した。従来の塹壕を頼みとした防御的なものから、機動力を生かした攻撃的なものへと戦いのスタイルを一変させた。そのような状況の中、従来の戦車を超える機動力や地形踏破性を有する兵器として登場したのが歩行戦車AFW(Armored Fighting Walker)である。 最初にこのAFW開発を行ったのは第二次世界大戦期のドイツである。時の国家元首ヒトラー総統より下された多脚兵器開発指令の元、ポルシェ社とヘンシェル社が共同で開発した多脚兵器「PzKgllアーマイゼ」、ドイツ語で蟻を意味する名を付けられたこの新兵器は当初は実験兵器の1つとしてしか見なされていなかったが、独ソ戦開戦後にソビエト軍が投入したソビエト戦車の高性能にショックを受けたドイツ軍上層部の命により急ピッチで開発が進められ、1942年8月に最初の試作機が完成する。その後、量産された機体は翌1943年7月にチタデレ作戦の山場たるクルスク北翼の戦いに投入される。丘陵地帯において攻撃能力と戦車以上の機動性が発揮されると期待されたが、実際にはアーマイゼ88mm砲型、20mm機関砲型2機種とも初期不良に悩まされ、結局は撤退時に追撃してくるソビエト軍戦車隊に対して固定砲台として使い捨てにされた。その後、数々の問題点は解決されたものの、戦況の悪化により生産数も落ち込み、東西からドイツに向けて迫る連合国軍の前では活躍の場も無かった。 一方、アメリカでは核戦争下において有効な陸戦兵器の開発が、原爆開発計画「マンハッタン計画」の一部として行われ、その過程で「放射線から乗員を守る密閉型戦闘室を備え、なおかつ核爆発の影響で荒れた地面を走破可能な歩行兵器」という案が固まり、これがアメリカにおけるAFW開発の始まりとなった。その後、1944年6月のノルマンディー上陸作戦にてアメリカ軍はドイツ軍の多脚兵器を鹵獲、8月にはAFWの前身である市街地戦用対歩兵掃射兵器として開発された歩行兵器「Wm-1」が、ドイツ軍を相手に活躍する。その後、密閉型戦闘室が放射能の遮断に対して不完全なことが証明されるも、開発に関わっていたGMI社は「圧倒的火力を有する大型AFWによって戦場を制圧する」という新コンセプトを打ち出し、アメリカ軍の支持を得たばかりかアメリカにおけるAFW開発の方向性をも定めた。 ソビエトでは、スターリングラードより始まった本格的な反攻作戦の中で、ドイツ軍のAFWと幾度となく交戦する中、次第にAFWに着目してゆく。そして、1945年2月にドイツ国境のオーデル川まで進軍していたソビエト軍は、東プロシアの兵器工場を接収。その中には多脚兵器プラントもあり、これによってソビエトでのAFW開発が始まる。その後、ドイツ多脚兵器拡大コピーである「Ire-3」が完成し、同年9月の北海道上陸作戦に投入された。 日本におけるAFW開発は、1944年7月にドイツからUボートにて設計図とネーベルン社技術者が到着したことをきっかけに、これに光菱工機の技術者を加えてスタートする。この当時、戦局の悪化で物資は欠乏し、基本部品の質は低下していたが、軍部の全面的協力と技術者達の不眠不休の努力が実り、1945年4月にはドイツAFWの縮小コピーである「五式甲脚装甲車」の生産・配備が進められた。そして、この五式甲脚装甲車は同年9月に北海道へと上陸したソビエト軍のIre-3と史上初のAFW同士の戦闘を展開。ソビエト軍に多大な出血を強いるも結局は物量に勝るソビエト軍に制される。また、同年11月のアメリカ軍による九州上陸作戦(オリンピック作戦)でもアメリカ軍を相手に砲火を交えた。 平野の多いヨーロッパではあまり活躍の場が無かったAFWは、山地が多く国土面積の狭い日本では極めて適した兵器であり、この日本における連合国軍を相手にしての活躍ぶりがAFWに対する評価を好転させることになる。その後、1950年6月に勃発した「日本戦争」ではAFWは南北日本両軍が主力兵器として使用。その有効性が証明された結果AFWは陸戦の基幹兵器として認められた。
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