8月戦争の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 19:18 UTC 版)
「ジョージアとロシアの関係」の記事における「8月戦争の影響」の解説
メドヴェージェフは、「5日間戦争」(8月戦争)終結後の2008年8月31日、この戦争はロシアの勢力圏と現地に住むロシア人を守るために必要だったと訴えた。そして、ヨーロッパ連合(EU)の仲介によってようやく停戦合意にいたり、ロシアが南オセチアおよびアブハジアの主権を一方的に承認したうえで、9月に入ってから軍を撤退させたのであった。このとき、フランスのニコラ・サルコジ大統領はEU議長国の元首としてモスクワとトビリシのあいだを何度も往復し、停戦にむけての合意案を模索した。そのときのサルコジ大統領は熱中症で倒れてしまうのではないかと心配されるほど、政治的情熱を傾けて停戦合意形成のため奮闘した。 メドヴェージェフとプーチンにとって誤算だったかもしれないのは、従来「親露派」とみなされてきた諸国、とくにベラルーシやアルメニア、さらにカザフスタンなどからさえ、ジョージア侵攻について積極的な支持を取りつけることができなかった点である。これらの国々の首脳は事態悪化に懸念を表明するのがやっとであり、ロシア軍のジョージア侵攻を正当化するような発言をすることは一切なかった。当時、ロシアに好意的な国を世界中から探すならば、キューバ、シリア、リビアくらいではないかと論じられたのであり、ロシアとしては確実に孤立感を深めたのである。 また、メドヴェージェフが軍事侵攻の理由として「ロシア人保護」を掲げたことは旧ソ連構成諸国に強い警戒感をいだかせた。旧ソ連諸国には全体で1,900万におよぶともいわれるロシア人が居住しているからであった。旧ソヴィエト連邦は、1975年のヘルシンキ合意によって第二次世界大戦後のヨーロッパの国境線を認め、国境不可侵の原則を掲げてきたのであり、ロシアがみずからその原則を破って外国に軍事侵攻し、国境を変更したという事実は重い意味合いをもったのである。実際、8月末の上海協力機構首脳会議においては、中国も中央アジア4カ国も領土保全の原則を確認して、南オセチア・アブハジアの独立を承認しなかった。結局、ロシアには真の意味での同盟国は1国もないということが明らかになったのである。ただし、ジョージアの国家主権を擁護するためにロシアを相手に経済封鎖をおこなったり、外交関係を絶とうという国がなかったこともまた事実である。 戦後のジョージアではサアカシュヴィリ大統領がトビリシで15万人を集めての「反ロシア大集会」を開催した。壇上には、ウクライナ、バルト三国、ポーランドら列国の政府首脳の姿もあった。このようにみるならば、ロシアは軍事的には圧勝したはずであったが外交的にはあたかも敗北者のようであった。ロシア国民のなかには和平についてサルコジと交渉するメドヴェージェフが一方的に譲歩しているようにみえるという向きさえあったのである。 2008年8月の戦争においてロシアはアメリカ合衆国やNATOを批判し、メドヴェージェフは「新たなる冷戦も恐れない」とさえ発言した。2008年11月の年次教書演説ではアメリカのミサイル防衛(MD)構想に対抗して、ロシア連邦西端のカリーニングラード州に最新鋭の短距離ミサイル「イスカンデル」を配備すると警告し、南オセチアとアブハジアにはロシア軍の基地が置かれ、また、両地域にはロシアからの天然ガスのパイプラインが敷設された。 これに対し、任期終了の近づいたアメリカのブッシュ政権もロシアとの対決姿勢を強め、8月戦争直後にポーランドとMDシステム配備に関する協定を締結する一方、ロシアとのあいだの原子力協定は停止し、さらにロシアが経済協力開発機構(OECD)や世界貿易機関(WTO)に加盟することは認められないと表明、ジョージア政府に対しては10億ドルもの支援を約束した。NATOもまたロシアとの合同評議会を中止するなどロシアとの関係を凍結するにいたった。 サアカシュヴィリ政権はいっそう親欧米路線を強め、2009年8月、ジョージア政府はCISから脱退、9月にはロシアに対し外交関係断絶を通告した。また、この年の3月には日本語における同国の国名表記を、従来の「グルジア」から英語表記に基づく「ジョージア」への変更を要請した。 一方、ブッシュに代わってアメリカ合衆国大統領に就任したバラク・オバマがロシアとの関係重視の方針を打ち出したため、サアカシュヴィリ政権側は焦り、困惑した。2009年7月、オバマは自らはモスクワに飛び、メドヴェージェフと会談して両国の関係改善を確認する一方、副大統領のジョー・バイデンにジョージアとウクライナを訪問させた。バイデンはトビリシで「アメリカはジョージア側に立つ」と演説し、ロシアを牽制してジョージア側の懸念を払拭しようと努めた。ただし、その一方では、ジョージアに対しては再び軍事衝突を起こすことがないようクギをさすことも忘れなかった。2010年5月、オバマはロシアとの原子力協定凍結の解除を決めている。 ロシアにとってジョージアへの侵攻は、ジョージアのNATO加盟を当面阻止した点では成果があったとみられる。しかし、その一方で国際的な権威とイメージを損ない、本来的な意味での同盟国が存在しないことが明らかとなった点では少なからずダメージを受けたと考えられる。また、軍事衝突によって海外投資家が資金を引き揚げ、株価が大幅に下がるなど経済的損失も大きかった。さらに、ジョージアと境を接するチェチェン共和国および北コーカサスでは一時沈静化していた民族紛争の再燃がみられた。その一方でジョージア侵攻における軍事的成功は、ロシアにおいて軍部の影響力の増大化を招いたのであった。 ジョージアにとっては、南オセチアとアブハジアを事実上失ったことで民主革命は大きくつまずき、サアカシュヴィリは厳しい政権運営を強いられるようになった。ジョージアの野党指導者も相次いでロシアを訪問するなど、サアカシュヴィリを牽制する動きを強めた。 戦争の惨禍はきわめて大きなものであった。軍事衝突はジョージアのほぼ全土におよび、アパートや学校、病院なども破壊された。これにともなう民間人の死者は2,000人とも3,000人ともいわれている。真相不明ながら、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の発表によれば、この戦争によって発生した難民・避難民は20万人におよぶとのことである。 南オセチアに居住していたグルジア人たちは、ロシア軍の侵攻によって住む場所を失い、ジョージア側に避難し、避難者のための仮設住宅も多数つくられた。現地情報によれば、南オセチアとジョージアの境界には軍の車両が配備されているものの、ジョージアとしては「国内の治安問題」にしておきたいため、表だっては軍であることを明示せず、警察車両であるかのようにカモフラージュすることもおこなわれている。
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