2008年8月の戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 19:18 UTC 版)
「ジョージアとロシアの関係」の記事における「2008年8月の戦争」の解説
ジョージアとロシアは、アブハジアや南オセチア問題、ジョージアのNATO加盟に向けた動きなどを背景に緊張関係が続いていたが、2008年8月、北京オリンピックの開会式の最中に起きた両国の軍事衝突は世界に大きな衝撃をもたらした。ジョージア軍と南オセチア軍の衝突にロシアが介入したことで、その緊張は戦争に発展したのである(南オセチア戦争またはロシア・ジョージア戦争)。ロシアが外国に侵攻したのはソ連のアフガニスタン侵攻以来30年ぶりのことであり、ソ連のチェコスロヴァキア侵攻から40年目にあたっていた。ロシアによる軍事侵攻は欧米諸国にとっては想定外のできごとだったのであり、国際的にはロシアに対する非難が高まり、「ロシア脅威論」が再燃した。ことに、旧ソ連構成国のウクライナ、バルト三国、ポーランド、そして欧米諸国からの非難は非常に激しいものであった。 オリンピックの開会式に参加していたプーチン首相(当時)は急遽帰国して北オセチアのウラジカフカスなどロシア各地をめぐって従軍する兵士を勇気づけ、民衆に対しては社会保障の拡充やインフラ整備、給与所得および年金給与の引き上げ等を公約して、ジョージアとの戦闘を指揮した。南オセチアは国際法上はジョージアの国土の一部であるにもかかわらず、ロシア政府は南オセチアの住民にパスポートを発給していた。したがって、「ロシア国民の保護」を理由に、いつでも南オセチアに侵攻できる態勢を整えていたのである。この戦争はアブハジアにも飛び火した。戦闘自体は5日間で終了し、ロシア側の圧勝で終わったことから「5日間戦争」とも呼ばれている。 この戦争について、ヨーロッパ連合(EU)の独立調査委員会は1年後の2009年9月に報告書を発表している。それによれば、国際的なロシア非難にもかかわらず軍事攻撃はジョージア側から始めたものであった。ジョージア軍は2008年8月7日午後、南オセチア自治州の首都ツヒンヴァリに陸と空から大規模な軍事攻撃をおこなった。これに対し、ロシアは翌8日未明、圧倒的な規模でジョージア侵攻を開始した。ジョージア軍は南オセチアならびにアブハジアから撤退したが、ロシアはポティやゴリなどジョージアの都市も占領し、中心都市トビリシに迫る勢いをみせた。ジョージア西部のコドリ渓谷付近では両軍の激戦となり、ロシア軍優勢のうちに激しい戦闘は8月12日までつづいた。その結果、8月26日、ロシアが南オセチア・アブハジアを独立国家として承認するにいたっている。EU報告書はジョージア側の軽率な行動が直接の契機となってロシアの侵攻を招いたとして同国を非難すると同時に、ロシア側もまた数年にわたってジョージアに対し経済制裁などの挑発的な行動を繰り返してきたこと、ジョージアに対するロシア側の反撃は度の越えた大規模なものであったこと、国際法に違反して南オセチアおよびアブハジアを独立国として承認したことなどについてその責任を追及している。 サアカシュヴィリとしては、国内に紛争地域をかかえていることがNATO加盟の障害となると考え、分離独立を標榜する南オセチアなどを支配下に置こうと、国際世論の関心が北京に集まっている虚を突いて軍を動かしたものとみられる。結果的にはこの行為がロシアに介入の口実をあたえることになってしまったとはいえ、ジョージアとしてはよもやロシア側が全面的に軍事介入するとは考えず、たとえ介入しても欧米からの援助があるものと判断したと考えられる。その点で、ジョージアはロシアの反応を過小評価し、欧米の支援を過大評価したといえる。 当時、ドミートリー・メドヴェージェフ大統領とウラジーミル・プーチン首相の二頭支配にあったロシアは、従来より挑戦的な態度をとるジョージアを懲罰し、西側諸国のロシア軽視の姿勢に反撃する機会をうかがっていた。ロシアとしては、ヨーロッパ諸国がロシアから多くのエネルギー供給を受けていることから、仮にコーカサスに軍事侵攻したとしても強く出てこないという読みがあった。さらに、ロシアはアメリカのイラク侵攻は良くて、どうしてロシアのジョージア侵攻がいけないのか、また、欧米諸国がコソボ共和国の独立を承認しているのに、ロシアが南オセチア・アブハジアの独立を承認して何がわるいのかという欧米基準の優先する国際世論に対する不満も確かに存在していた。そこでは、多極主義の考え方が確実にみられる。 ただしロシアは、ジョージアがこのタイミングで南オセチアに対し戦端をひらくとまでは考えていなかったようであり、その証拠には、メドヴェージェフはロシア内のサマラ州において休暇中であったし、プーチンは北京オリンピックの開会式に出席していたのである。ロシアとしては確かに思いがけないことであったが、衝突の1ヶ月前にロシア軍は南オセチアに隣接するロシア領内で軍事演習していたため、ジョージアの攻撃に対して迅速に対応できたのであった。ただし、8月12日の時点で連戦連勝の状態にあり、首都トビリシにあと40キロメートルと迫ったロシア軍に対し、突如メドヴェージェフが軍事作戦終了を発表したことは、今もって謎とされている。
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