1999年から2009年
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「ワシントン・コマンダース」の記事における「1999年から2009年」の解説
1999年、ダニエル・スナイダーがチームをジョン・ケント・クックから8億ドルで買い取り新オーナーとなった。これはプロスポーツ史上最高額の買収であった。同年11月21日、スナイダーオーナーはジャック・ケント・クック・スタジアムの命名権をフェデックスに与え、本拠地スタジアムは「フェデックスフィールド」と改称された。同年のドラフトでニューオーリンズ・セインツはその年の全指名権、翌年のドラフト1巡、3巡指名権と引き替えにレッドスキンズからドラフト全体5番目の指名権を獲得、セインツはRBリッキー・ウィリアムズを獲得した。この年、10勝6敗で1992年以来、またノーブ・ターナーヘッドコーチが就任後初のプレーオフ出場を果たした。最終週のマイアミ・ドルフィンズ戦でRBのスティーブン・デービスはチーム新記録となる1405ヤードを走りQBのブラッド・ジョンソンはパス成功307本の新記録を作り4000ヤード以上を獲得した。プレーオフではデトロイト・ライオンズを破ったがタンパベイ・バッカニアーズに13-14で敗れた。 2000年のドラフトでは後にプロボウルに選出されるラヴァー・アーリントン、クリス・サミュエルズを獲得した。チームは序盤に5連勝するなど好調だったが7勝6敗となり、12月4日にターナーヘッドコーチは解任されテリー・ロビスキーが暫定ヘッドコーチとしてシーズン終了まで指揮を執りチームは8勝8敗でシーズンを終えた。この年の最終週にラリー・センターズがRBとしてのNFL通算パスレシーブ記録になる685回目のレシーブを達成した。 2001年、チームはクリーブランド・ブラウンズ、カンザスシティ・チーフスのヘッドコーチ経験のあるマーティ・ショッテンハイマーをヘッドコーチに迎えた。開幕戦のサンディエゴ・チャージャーズ戦を3-30で落とした直後の9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生した。9月13日、チームはペンタゴンでの犠牲者家族に対する基金設立を発表した。この年チームは8勝8敗に終わりシーズン終了と共にショッテンハイマーは解任された。 2002年、フロリダ大学のヘッドコーチ、スティーブ・スパリアーが新ヘッドコーチに就任した。1年目は7勝9敗で1998年以来の負け越しとなった。12月29日の試合でダレル・グリーンが引退することとなった。彼は19シーズン連続でインターセプトを1個以上あげるNFL新記録、レッドスキンズ選手として295試合に出場(先発出場は258試合)のチーム記録などを残した。 2003年、チームは1994年以来最悪の5勝11敗でシーズンを終えた。その中でブルース・スミスがレジー・ホワイトがこれまで持っていたNFL通算サック記録を塗り替える199個目のQBサックを決めた(その後、彼は200サックの成績で引退した。)。シーズン終了後残り3年の契約を残していたもののスパリアーヘッドコーチは辞任した。 2004年、チームは再びジョー・ギブスをヘッドコーチ、そして球団社長として迎えた。このときの契約条件としてスナイダーオーナーが今までよりチームの運営に口を出さないことが約束された。この年チームはフェデックスフィールドの観客席を91,665人分に増やした。ジャクソンビル・ジャガーズからQBマーク・ブルネルを獲得したがシーズン途中からパトリック・ラムジー(2002年のドラフト1巡目に指名)が先発QBとなった。CBのショーン・スプリングス、LBのマーカス・ワシントンも活躍しドラフトではマイアミ大学からショーン・テイラーを獲得した。 これまでスナイダーオーナーは大金を元にブルース・スミスやディオン・サンダースなどのビッグネームをフリーエージェントで獲得していたがギブスはコーネリアス・グリフィン、サンタナ・モス、クリントン・ポーティスなどを獲得した。 2005年のオフシーズン、ギブスはラバーニアス・コールズをニューヨーク・ジェッツにトレードし、サンタナ・モスを獲得した。またドラフト1巡目ではオーバーン大学のCBカルロス・ロジャース、QBジェイソン・キャンベル(デンバー・ブロンコスから獲得した1位指名権)を獲得した。前のシーズン十分に機能しなかったオフェンスを立て直すためジャクソンビル・ジャガーズのオフェンスコーディネーターだったビル・マスグレイブをQBコーチとして招きギブスのチームとしては初めてショットガンフォーメーションを導入することになった。開幕3連勝したものの11月に3連敗するなど苦しいシーズンであったが最後の5試合を連勝で終えて10勝6敗でプレーオフにワイルドカードで出場した。タンパベイ・バッカニアーズとの試合を17-10で勝ったもののオフェンスはわずか120ヤードしか獲得できなかった。これはプレーオフ勝利チームとしてはワースト記録であった。翌週のシアトル・シーホークスとの試合で10-20で敗れ1991年以来となるNFCチャンピオンシップゲーム出場はならなかった。クリントン・ポーティスはこの年1,516ヤードを走りチームのシーズン記録を塗り替えた。またサンタナ・モスはレシーブで1483ヤードを獲得、ボビー・ミッチェルが1963年に作った1463ヤードのシーズン記録を破った。タイトエンドのクリス・クーリーは71回のレシーブでジェリー・スミスのシーズン記録を破った。シーズン終了後、チームはラヴァー・アーリントンを解雇した。 2006年、ギブスはオフェンスコーディネーターのアル・サンダースをアシスタントヘッドコーチとした。サンダースはギブスと共にドン・コリエルの下でアシスタントコーチをした経験があり、サンダースがプレイコールを出すことによってギブスはヘッドコーチ、CEOの職務に専念することができるようになった。またバッファロー・ビルズの元ディフェンスコーディネーターのジェリー・グレイをディフェンスバックコーチとして招いた。QBコーチのビル・マスグレイブはチームを去りアトランタ・ファルコンズに移った。オフシーズンにブランドン・ロイド、アントワン・ランドレル、アダム・アーチュリータ、アンドレ・カーターを獲得しチームへの期待は高まった。 この年チームは接戦をたびたび落としてシーズン途中でギブスは先発QBをブルネルからジェイソン・キャンベルに交代させた。最終的に5勝11敗で地区最下位に終わった。この年の失敗の原因をアナリストたちはフリーエージェントで獲得したアーチュリータ、ロイドの不成績、ギブスのパワーラン中心のオフェンス哲学とサンダースのパス中心のオフェンス哲学の衝突にあったと考えた。ディフェンスバックはリーグ最多の30タッチダウンパスを決められインターセプトは最少の6個であり、ターンオーバーは16試合制になってから最少12個であった。チームディフェンスは前年の7位から29位に低下した。 チーム創設75周年となった2007年は5勝3敗から3連敗したが11月26日の日曜日、チームリーダーでありスーパースターのショーン・テイラーがマイアミの自宅にいたところ銃で撃たれ翌日他界した。翌週のバッファロー・ビルズ戦で16-14でリードした残り8秒で相手キッカーのライアン・リンデルにプレッシャーを与えるためタイムアウトを取った後、再度タイムアウトを取ったコールがアンスポーツマンライクコンダクトの反則が取られて51ヤードだったFGが36ヤードになり容易に決められて逆転負けを喫した。2日後の火曜日にテイラーの葬儀が行われたさらに2日後の木曜日、シカゴ・ベアーズとサーズデイナイトゲームで対戦した。この試合でジェイソン・キャンベルはひざを負傷しシーズン絶望となったが、控えQBのトッド・コリンズが活躍し、最後の4試合を連勝して9勝7敗でプレーオフ出場を果たした。シアトル・シーホークスとの試合、13点を先制された後、14-13と逆転したがFGを失敗し追加点を取れず逆に相手にタッチダウンを許した後、2ポイントコンバージョンを決められ7点リードされた。コリンズのパスが2回インターセプトされいずれもリターンTDを許し14-35で敗れた。 2008年よりシアトル・シーホークスの元QB、ジム・ゾーンが指揮を執りウェストコーストオフェンスを導入した。7月、マイアミ・ドルフィンズからジェイソン・テイラーを2009年のドラフト2巡指名権、2010年のドラフト6巡指名権と引き替えに獲得した。 チームは6勝2敗と好スタートを切り、RBクリントン・ポーティスはラッシングリーダーに、QBジェイソン・キャンベルは開幕から8試合連続インターセプトなしと安定したプレーを見せた。しかしピッツバーグ・スティーラーズ戦でポーティスが負傷退場し試合に敗れるとその後は2勝8敗と低迷していたシアトル・シーホークスに3点差でようやく勝利する有様で勝ち星から遠ざかり、フィラデルフィア・イーグルスを破る番狂わせを演じたものの8勝8敗でシーズンを終えた。 2009年、アルバート・ヘインズワースを7年、1億ドルの契約で獲得すると共に2008年シーズン途中レイダースから加入して7試合に出場していたディアンジェロ・ホールとも6年、5400万ドルの契約を結んだ。また2003年にドラフトで獲得していたガードのデリック・ドッカリーを5年契約で再獲得した。ドラフト1巡目ではテキサス大学のDEブライアン・オラクポを獲得し、ベテランTのジョン・ジャンセン、WR/KRのジェームス・スラッシュを解雇した。第3週には、前の試合まで19連敗中だったデトロイト・ライオンズに敗れた。シーズン開幕後2勝3敗となった時点でシャーマン・ルイスをオフェンス・コンサルタントとして契約し、カンザスシティ・チーフス戦に敗れた後、プレイコール権限をゾーンからルイスに移す決定を行った。こうした大きな権限変更を行ったもののビニー・セラートはゾーンヘッドコーチをシーズン途中で解任することを否定した。第14週の試合の3日前、チームはジョージ・アレンの息子でオークランド・レイダース、タンパベイ・バッカニアーズでGMを務めたことのあるブルース・アレンをGMとして起用、セラートは辞任した。
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