13–14世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 22:50 UTC 版)
イングランド王とウェールズ(グウィネズ王国(英語版))の首長は、1070年代より北ウェールズの覇権を争っていたが、13世紀に紛争が再発するようなると、エドワード1世の治世のうちに、1277年に続き、1282年に2度目のウェールズへの侵入を引き起こした。エドワードは大軍とともに侵攻し、カーマーゼンから北方に、またモンゴメリー(英語版)やチェスターから西に向けて攻略した。エドワードは北ウェールズの恒久的な直轄領化を決定し、その統治の条項が1284年3月19日に公布されたリズラン法令(英語版)に定められた。ウェールズはカウンティとシャイア (counties and shires) に分割され、イングランドの統治に倣って、北西ウェールズに3つの新しいシャイアとして、カーナーヴォン(英語版)、メリオネス(英語版)、アングルシーが創設された。防御の城を持つ新しい町が、始めに2つのシャイアの行政的中心地としてカーナーヴォンとハーレフに置かれ、また別の城と防壁の町が近隣のコンウィに建造され、おそらくアングルシーのスランフェス(英語版)の町の付近にも同様の城と居住地を置く計画が立てられていた。スランフェスはウェールズで最も豊かな自治市とされ、人口においても最大で、重要な貿易港として北ウェールズからアイルランドに向かう要路上にあった。しかし、ほかの城を築くための莫大な出費により、スランフェスの事業は延期されていた。 1294年、マドッグ・アプ・サウェリン(英語版)(マドッグ・アプ・ルウェリン)がイングランド支配への反抗を起こした。反乱は血にまみれ、犠牲者のなかには国王の側近であるアングルシーの保安官ロジャー・ド・プレスドン(英語版)もいた。エドワードは冬以降、1295年3月に反乱を鎮圧したが、4月に一時アングルシーが再占領されると、直ちにその地域を固めるために、遅延した計画に着手し始めた。選定された場所はビューマリス (Beaumaris) と呼ばれ、その名前はノルマンフランス語の Beau Mareys に由来し、「美しい湿地」(英: ‘fair marsh’)の意であり、ラテン語で de Bello Marisco と称されていた。ここはスランフェスから約 1マイル (1.6 km) であったため、スランフェスのウェールズ住民を南西約 12マイル (19 km) 移動させる決定がなされたことから、そこにニューボロウ(英語版)という名前の入植地が創設された。地元ウェールズ人の強制移動は、強固な城により防御され、繁栄するイングランドの町の構築に向けての道を開いた。 城は町の一角に配置され、コンウィの町と同様の市街計画によるが、ビューマリスにおいてはいくつかの基礎が置かれたにも関わらず、当初、町の防壁は建設されなかった。1295年の夏、ビューマリス城はマスター・ジェイムズの監督のもと着工された。ジェイムズは「ウェールズにおける王の仕業のマスター(親方)」に任命され、ジェイムズは責任を担ってエドワードの城の建造と設計に携わった。1295年には、ビューマリスがジェイムズの一義的責務となると、重ねて ‘magister operacionum de Bello Marisco’ (ビューマリスの造営長官)の称号が与えられた。その仕事は、中世の王室経費の継続的記録であるパイプ・ロールにかなり詳細に記録されており、そのため、ビューマリスの造営の初期段階は、その時代において比較的よく分かっている。 最初の夏に大規模な作業がなされ、平均1800人の人夫、450人の石工、375人の石切りが現場にいた。これには週に約270ポンドが費やされ、事業は急速に滞り、担当官は労働者に通常の貨幣で支払う代わりに革の代用貨幣の発行を余儀なくされた。秋までには6000ポンドが消費されていた。城の中心部は冬にかけて労働者を収容する仮設の小屋で溢れていた。次の春、ジェイムズは雇い主にいくつかの問題およびそれに伴う多額の費用について説明した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}1週間でこれほど多額の資金がどこに行くのか不思議に思われるといけないので、貴殿に知ってもらいたい我われが必要なもの - それは切断と積重の両方で石工400人、加えて非熟練(一般)作業者2000人、荷車100台、ワゴン60台、それに石材や石炭紛 (sea coal) を運ぶボート30隻。採石夫200人。鍛冶屋30人。また根太(英語版)(ねだ)や床板を施すほか必須の仕事をする大工が引き続き必要です。すべてこれには駐屯の……物資の調達はなにも計上していません。その中でかなりの割合が必要となるでしょう……男らの賃金は今もなお非常に延滞しており、彼らには生きる糧が何もないことから、我われは彼らを維持するのに最大の困難を抱えています。 建設は1296年のうちに遅延したが、債務は増え続け、そして次の年にはさらに作業が減り、1300年には完全に中断し、その時までに約1万1000ポンドが費やされていた。中断は主にスコットランドにおけるエドワードの新しい戦争によるものであり、それへの注力および財源が消費され始めたことで、城は部分的にしか完成しないまま放置された。その内壁や塔においては、あるべき高さのものはほんのわずかであり、北ならびに北西側は完全に外防備を欠いていた。 1306年、エドワードは北ウェールズへのスコットランドの侵攻が起こり得ることを危惧したが、未完の城はすでに修繕できないぐらいの状態に陥っていた。外側の防備を完成させる作業が再開され、初めにジェイムズの指揮のもと、その後、ジェイムズが1309年に亡くなると Master Nicolas de Derneford が引き継いだ。一方、エドワード1世は1307年7月にスコットランドへの進軍中に亡くなり、子のエドワード2世に引き継がれ、その後1327年1月に廃位すると、エドワード3世が14歳で即位したが、それを期にスコットランドが北イングランドに侵攻し、1328年にはエディンバラ=ノーサンプトン条約(英語版)が締結された。ビューマリス城の作業は、1330年を最後に中止され、城はまだ計画の高さには構築されないまま、事業の終了までに1万5000ポンドという莫大な額がその期間に費やされていた。1343年の王室調査では、城の完成には少なくともさらに684ポンド必要であろうとされたが、これが出資されることはなかった。
※この「13–14世紀」の解説は、「ビューマリス城」の解説の一部です。
「13–14世紀」を含む「ビューマリス城」の記事については、「ビューマリス城」の概要を参照ください。
- 13–14世紀のページへのリンク