飛行機とのかかわり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 05:51 UTC 版)
日清戦争中の明治27年(1894年)8月19日、大島混成旅団の参謀隷下の衛生兵が飛行機の開発に軍の協力を求め、略図を添えて大島義昌旅団長宛に『軍用飛行器(飛行機)考案之儀二付上申』を提出してきた。参謀であった長岡は人が乗って自在に空中を移動する機械という当時としては奇想天外な研究の意義を理解することができず、「今は戦時である」「外国で成功していないことが日本で出来るはずがない」「成功したとしても戦争には使えない(上申では偵察に使えるとされていた)」と一蹴した。この衛生兵こそが、後に日本の飛行機開発の先駆者として知られることになる二宮忠八であった。 二宮は日露戦争(臨時気球隊が旅順攻囲戦で実戦投入された)終結後にも再び上申を行うが、大島中将からは「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答であった。二宮は軍が飛行機開発に乗り気ではないと感じ、自力で研究資金を調達するため退役し大日本製薬株式会社へ入社した。業績を挙げて1906年(明治39年)に支社長にまで昇進するも資金をまかなえず、スポンサーも現れなかったため開発は停滞し、漸く自作のめどが付いたところで1903年12月17日にライト兄弟による有人動力飛行がすでに行なわれていた事が判明(兄弟らは情報秘匿のため積極的な公表を控えたため、暫くの間世界的にこの偉業が伝わっていなかった)。二宮は飛行機の開発をやめてしまう。 日清戦争中の上申時点では二宮の飛行機の着想はライト兄弟に先行しており、結果として長岡ら軍上層部の冷淡な態度が日本人による飛行機の発明の機会を失った一因とされている。その後白川義則中将と二宮の対談が新聞や雑誌に取り上げられてこの事実が世間に知られることになると、長岡は自らの先見のなさを嘆いて長文の詫び状を送り、二宮に面会して謝罪したという。 軍務局長であった明治42年(1909年)8月には、初代の臨時軍用気球研究会の会長を兼務し、日本軍の航空分野の草創期に貢献した。当初、同会長には陸軍次官である石本新六を据えることが検討されていたが、石本は飛行機など飛ぶわけがないとこれを拒否し、対して長岡が実際に飛行機を見たことはないが将来の戦争に役立つような気がすると答えたことによる抜擢であった。しかし、長岡は初飛行に立ち会うことことのないまま翌年に第13師団長へ転出し、後任会長には石本が就任した。 16師団長在任中の大正2年(1913年)、師団が駐屯する深草練兵場で発生した武石浩玻の墜落事故(日本初の民間飛行家死亡事故)に接し、その処理に当たる。 大正3年(1914年)に開戦した第一次世界大戦では、二宮が予想していた通り、観測気球に代わり固定翼の偵察機が実戦投入された。 予備役となった長岡は、二宮の研究と功績を後世に伝えるとともに飛行機の普及を計るため、大正4年(1915年)1月に日本飛行研究会を母体とする国民飛行協会を創設し、人材の顕彰・育成、啓蒙活動を精力的に行った。来日する外国人飛行家を積極的に歓迎し、アート・スミスが来日すると飛行機の歌を作詞して披露した。 大正7年(1918年)6月に国民飛行協会が帝国飛行協会に併合されるとその副会長となる。 大正8年(1919年)10月に東京・大阪間第一回懸賞郵便飛行大会の審査委員長を努め、12月には欧米へ視察旅行にでかけ、航空関係者やフランスのエースパイロットのルネ・フォンク(英語版)大尉と面会したほか、アブロの三葉機旅客機やデ・ハビランドのD・H・4戦闘機に搭乗し、曲芸飛行も体験した。 大正10年(1921年)に航空映画『悪夢』を上映させている。 大正12年(1923年)の関東大震災に際しては、自宅を東京・大阪郵便飛行仮事務所として開放し、国際飛行場として羽田飛行場の必要性を説いている。 政界に進出した長岡は「飛行事業拡張に関する建議案」「飛行機製造奨励法」「航空省の設置」等の議案を提出している。
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