研究と功績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 05:43 UTC 版)
大正4年(1915年)1月20日、九州帝国大学で行われた第54回九州帝国大学医科大学集会で、稲田龍吉・井戸泰による「ワイル氏病病原スピロヘータ確定に関する予報」が発表される。 ワイル病は、ネズミなどの野生動物を自然宿主とし、排泄物に汚染された土壌から病原性レプトスピラに経口、経皮的に感染し、高熱、肝臓・腎臓障害を起こし、重症化すると全身から出血を引き起こす伝染病で、現代ではほとんど発症例はない。しかし、当時の戦争は歩兵による白兵戦が中心で、ヨーロッパでの戦線は一進一退を繰り返していた。最新兵器の機関銃掃射を避けるため、兵士は深い塹壕を掘り、長い時間そこに立てこもっていた。長引く戦況の中、地面はぬかるみ、異臭がたちこめ、負傷と疲労、食糧不足、寒気、毒ガスなど塹壕内は伝染病の巣窟と化していた。中でもワイル病は、致死率が高く恐れられていた。日本各地でも原因不明の風土病とされ、特に九州地方では、炭鉱労働者に多く症例が見られた。 保存されていたワイル病患者の血液標本の中からスピロヘータを最初に発見したのは井戸だった。稲田、井戸は当時の細菌学で最新の発見だったスピロヘータこそがこのワイル病の正体ではないかと研究を始める。井戸は主に動物実験を中心に行ったことが論文から見てとれる。ワイル病患者の血液をモルモットに接種し、ワイル病を発生させ、そのモルモットの肝臓組織にスピロヘータを見出す。そしてそのスピロヘータの継代培養にも成功し、ワイル病の病原体であることを確認した。 大正5年(1916年)7月2日、稲田、井戸のワイル病発見は医学研究の手本と評価され、その重要性、先駆性により第6回帝国学士院恩賜賞を授与される。帝国(日本)学士院恩賜賞は、日本の学術賞としては最も権威ある賞で、現在でも学士院賞の中から特に優れた研究に対し、皇室の下賜金で授賞されるものである。そして、世界最高の学術賞ノーベル賞にも推薦される。しかし戦乱のヨーロッパは4年間(1915年 - 1918年)に渡り受賞者を出すことはなかった。 ノーベル財団が公表した候補者リストによると稲田、井戸のノーベル賞へのノミネートは1919年である。ノーベル賞の選考・授賞は復活しているが、この時点で井戸は亡くなっていた。仮にワイル病発見が受賞対象となっていたとしても「ノーベル賞は死亡者には授賞しない」という規定があり、井戸の受賞は不可能であった。
※この「研究と功績」の解説は、「井戸泰」の解説の一部です。
「研究と功績」を含む「井戸泰」の記事については、「井戸泰」の概要を参照ください。
- 研究と功績のページへのリンク