連合規約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/22 16:56 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1776-1789)」の記事における「連合規約」の解説
詳細は「連合規約」を参照 パリ条約でアメリカ合衆国は独立国となり、休戦が成立したが、政府の構造そのものは落ち着いていなかった。第二次大陸会議は1777年11月15日に連合規約を起草し、その状態に規制の枠を当てた。この規約では恒久的な連合を謳っていたが、唯一の連邦機関である大陸会議には自力で財政の裏付けをしたり、そこで決まったことを強制したりする権限がほとんど与えられていなかった。連合規約では新しく結成された国に強い政治と経済の基盤を与えられなかった。しかしこの規約があったことで、より強力で多くの合意を得たアメリカ合衆国憲法の形成に繋がった。 歴史家達は一般に、連合規約が実効ある政府という観点では大きな失敗だったことに同意しているが、新しい州の加盟手続を規定し、土地を家産と邦に切り分け、さらには公共用途のためにそれぞれの街区を残しておいた1785年公有地条令や北西部条令には評価を与えている。この手段はヨーロッパの帝国主義的植民地化の概念とは明らかに異なっており、19世紀を通じてアメリカ合衆国が大陸全体に拡大していく基盤を与えた。 独立戦争の後半、植民地人の大半は比較的快適に暮らしていた。農夫はイギリス軍とフランス軍の前線内でその産品の市場を見付けていた。海上封鎖破りや私掠船からの報償は北部の商店に豊富な貨物と商品を提供した。投機家は戦争後に続くことが確実と見られた好景気に備えて負債を負った。 この夢は戦後の不況で泡と消えた。イギリス枢密院の命令で西インド諸島の港がイギリス船舶以外の船で運ばれる全ての主要商品に対して閉鎖された。フランスとスペインも同様な政策を実行した。同時に新興の製造業者は、アメリカの港を突然満たしたイギリス製品によって窒息させられた。幾つかの邦での政治不安と債務者が政府を動かしてその債務を帳消しにしようとした動きによって、革命を率いた政治と経済の特権階級の心配を増した。大陸会議は戦時中に蒙った公的義務(債務)を償還する能力が無く、商業と経済の発展を促すために邦間の生産協力を調整する力も無かったので、悲観的状況を悪化させるだけだった。 大陸会議は債券を発行していたが、終戦の時までにその紙幣が価値を下げていたために、通貨としての流通が止まり、「コンティネンタル(通貨の呼称)の価値もない」という表現がまかり通っていた。大陸会議は税を課すことが出来ず、邦に対して要求をするだけだった。各邦の知事には1783年だけで200万ドルの要請がいっていたにも拘わらず、1781年から1784年にかけて150万ドル足らずが国庫に入っただけだった。 1785年にジョン・アダムズが初代のアメリカ合衆国代表としてロンドンに行ったとき、制限のない通称条約を結ぶのは不可能だと分かった。要求は賄賂をもとになされ、各邦が条約に合意するという保証は無かった。アダムズは各邦がその力を結集して会議で航海法を通すか、各邦が独自にイギリスに対する報復的法を成立させる必要があると述べていた。大陸会議は既に航海法に関する権限を得ようとして失敗していた。一方、各邦はイギリスに対してその効果を少なくするために個々に行動していた。ニューイングランドの各邦がイギリスの船舶に対してその港を閉ざしたとき、コネチカット邦はその港を開くことで利益を得ようとした。 債務者の問題はマサチューセッツにおけるシェイズの反乱で頂点になった。大陸会議は製造業と商船業を守れなかった。邦議会は個人的な契約や公的債券に対する攻撃に抵抗できなかったし、しようともしなかった。土地の投機家は、政府がその境界を守れない、あるいはフロンティアの住人を守れないような場合は、資産価値の上昇を期待しなかった。連合規約を改定する会議を開催すべきという考え方が強くなっていった。独立戦争の退役兵であるアレクサンダー・ハミルトンは、ワシントンの副官だった間に実効の無い会議に対して軍隊が抱く不満を避けるためには強い中央政府が必要であると判断しており、少なくとも連合規約の改定、あるいはそれに代わるものの制定の可能性を判断するために、アナポリス会議の開催を要求した。
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