軍艦武蔵戦闘詳報
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1944年10月24日9:30 大和、武蔵の見張員がアメリカ陸軍B-24爆撃機(偵察機)を発見。 10:00頃 大和、能代のレーダーが100キロの彼方に敵機の大編隊を発見。 10:25 アメリカ軍機約40機を見張員が発見。しかし乱積雲の中に見失う。 10:25~10:27 第一次空襲(44機。うち武蔵への来襲機数17機)。見失ったアメリカ軍編隊が右舷の雲間より急襲。被弾1、被雷1、至近弾4。一番主砲塔天蓋に命中するも、砲塔への被害無し。至近弾により艦首水線下に僅かに漏水。被雷の衝撃により前部主砲射撃方位盤故障。浸水により右舷に5.5度傾斜するも注排水により傾斜角右1度まで回復。主砲発射せず、副砲48発を発砲。 11:38~11:45 第二次空襲(来襲機数16機)。被弾2、被雷3、至近弾5。被雷の浸水により今度は左舷に5度傾斜するも排水により傾斜角左1度まで回復。艦首が戦闘開始前に比べ約2m沈下。甲板を貫通した250kg爆弾が第十兵員室で炸裂、第2機械室の主蒸気管を破損し室内が水蒸気で充満。火焔の侵入と重なり第2機械室は使用不能に陥る。これにより3軸運転、最大速力22ktに低下。主砲発射9発、副砲17発。 12:17 第三次空襲(来襲機数13機)。被弾0、被雷1、至近弾3。被雷により測程儀室・測深儀室破壊。前部戦時治療室がガス充満の為使用不能。主砲発射13発、副砲43発。戦闘後、司令部より「コロンへ向かえ」との命令が下る。 12:23 第四次空襲(来襲機数20機)。12時53分、被弾4、被雷4。主砲発射15発、副砲37発。再び右舷に大きく傾斜するも排水により傾斜角右1度まで回復。艦首、更に3m沈下したためトリム修正の為の注水を行う。最大速力16ノット。艦隊輪型陣から落伍。司令部から「付近の港に退避するか浅瀬に乗り上げ適当なる応急対策を講ぜよ」と下命。「武蔵の北方に在りて警戒に任ぜよ」との命令に従い、栗田艦隊第二部隊の駆逐艦清霜、浜風、重巡洋艦利根が護衛に付く。 13:15 第五次空襲(来襲機数0機)。艦隊輪型陣から離脱していたため攻撃を受けなかった。アメリカ軍機は大和、長門に攻撃を集中した。なお武蔵は大和への援護射撃で5機撃墜を報告している。主砲7発発射。 14:45~15:21 第六次空襲(来襲機数75機)。主砲発射10発、副砲58発。集中攻撃を受け、爆弾10発以上、魚雷11発以上、至近弾6発以上を受け大火災を起こす。またしても左舷に10度傾斜、取舵と注排水により左6度まで回復した。艦首更に4m以上沈下し一番砲塔左舷側まで波で洗われる状態となる。前部艦橋にも直撃弾、航海長・高射長など准士官以上11名を含む57名が戦死。猪口艦長も右肩に重傷を負うも指揮続行。これ以上の戦力発揮は不可能と判断し、司令部へ摩耶乗組員の生存者の移乗を打診。 17:30頃 摩耶の乗組員の生存者と武蔵乗組員の負傷者が舷側に接弦した駆逐艦島風に移乗。1軸のみ使用可能で、6ノットにて微速航行。 19:15 傾斜角暫時増大し左舷12度となり傾斜復旧の見込み無し。総員退去用意下命。軍艦旗降下。 19:30 傾斜角30度。総員退艦命令。 19:35 左舷に転覆、連続爆発2回、艦首より沈没し始めた。沈没位置東経122度32分・北緯13度7分・水深800m。 戦闘状況を伝える主な一次資料として貴重な戦闘詳報であるが、レイテ沖海戦における「軍艦武蔵戦闘詳報」には疑問を指摘する声がある。帝国海軍技術大尉だった内藤初穂によると『世界の艦船 No.512』「大東亜戦争における旧海軍の『戦闘詳報』」において、武蔵の戦闘記録を栗田艦隊各艦戦闘詳報やアメリカ軍の記録と照合した結果、疑わしい点が多々あると指摘している。沈没位置は駆逐艦の清霜が記録した「東経122度41.5分、北緯12度48分」とずれており、主砲発射時期も生存者や他艦の記録と異なり、さらに栗田艦隊各艦の空襲記録(計5)とは開始時間と回数のそれぞれが違う。たとえば、武蔵は13時15分の第五次空襲で「大和と長門に敵機集中攻撃」としているが、長門では同時刻空襲を第三次空襲と記録した上で、発砲したのは13時37分、発砲停止は14時11分である。内藤は武蔵の記録は「創作戦闘詳報」に近いと評し、「今のうちにしかるべき証言者を得て、しかるべき注記を原史料に貼付しておかなければならない」としている。 『戦艦武蔵建造記録』でも、栗田艦隊各艦の報告と武蔵の報告が一致しないことを指摘し、戦史叢書を元に戦闘記録をまとめている。武蔵の戦闘詳報があいまいとなった最大の理由は、第一艦橋への直撃弾で航海部と信号部が全滅し、彼らが記載していた戦闘記録や航跡図、信号記録が消失したためである。第一艦橋全滅後に信号部の先任となった細谷四郎は、武蔵の高級将校が早々に内地に戻ったために、戦闘詳報に下士官兵の証言を取り入れなかった為と述べている。 なお、武蔵の戦闘詳報の「令達報告等」の項目には「亡失に付き誤あるやもしれず」の注がつけられている。
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