軍艦研究の泰斗として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/12 03:23 UTC 版)
退官後の1954年(昭和29年)から1958年(昭和33年)にかけて、7本の報告が牧野茂・福井静夫編『海軍造船技術概要』として纏められる(後に今日の話題社から刊行)。その後は『丸』『世界の艦船』を中心に数多くの旧海軍関連記事を発表しており、一般人が触れる事の出来る当事者の技術史料としては質量共にトップクラスとなる。 また、目黒の海軍大学校跡地にあった史料調査会で旧海軍関係の史料整理、欧米艦艇技術の調査を行なっており、理事も務めた。1970年代頃には戸高一成を部下とする。福井は戸高が大学生の頃よりアドバイスをしており「軍艦に詳しい人はたくさんいるけど、同時に史料管理の勉強をした人は戸高さんしかいない」と評価していたという(戸高は司書の資格も持っている)。技術者としての視点を前面に出し、1960年代に入った頃から旧海軍、特に大和型戦艦が何度も採り上げられるようになった際にも、「小さく纏め上げた事を誇りたい」と書いたり、後の1990年代末に前間孝則が詳しく採り上げることになる西島亮二を引き合いに出しながら工数管理で成功したことを評価するなど技術者として冷静に見ており、市井のファンに対しても冷ややかな評価が散見された。 また、艦艇への愛着から写真を積極的に収集していた海軍士官は他にもおり、福井は永村清(造船)、甘利義之(造機)などのコレクションを引き継いでいる。その後、高齢となるにつれ体が動かなくなり、戸高等に整理を依頼、福井の収蔵史料は史料調査会に搬入された。ダンボール箱で400~500箱にも達し日本に唯一しかない史料も多くあったと言う。この膨大な史料のアウトラインの目録を作成しているうちに福井は逝去する。史料は史料調査会が譲り受ける予定であったが、死後遺族の手により呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の開設計画が持ち上がり、その準備室に譲渡(売却とも言われる)された。後に館長を務めることになる戸高は引き続き関わった。
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