西沙海戦とは? わかりやすく解説

西沙諸島の戦い

(西沙海戦 から転送)

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西沙諸島の戦い(せいさしょとうのたたかい、ベトナム語Hải chiến Hoàng Sa 1974 / 海戰黃沙1974?)は、1974年1月に、西沙諸島(パラセル諸島)の領有権を巡って中華人民共和国ベトナム共和国(以下、南ベトナム)が交戦した武力衝突である。海戦により中国艦隊が南ベトナム軍艦1隻を撃沈し、南ベトナムが支配していた島嶼に部隊を上陸させて占領した。別名として永楽紛争、あるいは海戦部分のみを取り上げて西沙海戦とも呼ぶ。中国側の呼称は西沙群島自衛反撃作戦[1]


  1. ^ 張(1996年)、394頁。
  2. ^ 木俣(1993年)、252頁。
  3. ^ a b c 張(1996年)、395頁。
  4. ^ a b 平松(1993年)、32-35頁。
  5. ^ 木俣(1993年)、253頁。
  6. ^ 張(1996年)、396頁。
  7. ^ 木俣(1993年)、258頁。
  8. ^ a b 木俣(1993年)、259頁。
  9. ^ a b c 木俣(1993年)、261頁。
  10. ^ 張(1995年)、397頁。


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西沙海戦

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西沙諸島の戦い」の記事における「西沙海戦」の解説

1974年1月19日午前7時40分、南ベトナム軍40人が広金島上陸開始し、同島の中国軍銃撃戦となった。第73駆潜艇大隊掃海艇2隻の中国艦隊駆け付け午前8時頃から両軍艦艇お互いに進路妨害体当り始めた午前10時22分、南ベトナム艦隊発砲し、ついに本格的な交戦態となった。南ベトナム艦隊はチェン・チン・ユーとチェン・ピン・チョンが隊列組み、他の2艦はバラバラ行動した。ヌータオと中国側掃海艇2隻は激し接近戦となり、ヌータオと中国掃海艇389号」がいずれも浸水炎上した1時間足らずの交戦南ベトナム艦隊次々と損傷しバラバラ戦場離脱図った中国側12時過ぎに第74駆潜艇大隊の2隻も増援として到着しベトナム艦を追撃した低速のヌータオは逃げ切れず、優速な中国艦隊集中攻撃浴び午後2時52分に西沙諸島西部海域沈没した午後1時30分、永楽島に3個歩兵中隊・1個偵察中隊中国軍部隊上陸して占領したこの際中国艦隊ベトナム艦「キーリン」(漢字表記麒麟)の間でも交戦があった。翌1月20日には、金銀島など3島にも中国軍上陸し航空機援護の下で占領した地上戦南ベトナム軍は約100人が死傷した

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