製造とその過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 13:49 UTC 版)
1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)の間に、全国の国鉄工場および主要な民間車両メーカーのほとんど、さらに戦後、鉄道車輛業界に新規参入したメーカーまで、文字通り総動員して製作された。関与した工場・メーカーは以下のとおり。 国鉄工場 旭川・苗穂・五稜郭・土崎・盛岡・新津・大宮・大井・長野・名古屋・松任・高砂・後藤・多度津・幡生・小倉 民間車両メーカー 愛知富士産業・飯野産業・宇都宮車両・川崎車両・汽車製造東京支店・近畿車輛・帝國車輛工業・東急車輛製造・新潟鐵工所・日本車輌製造東京支店・日本車輌製造本店・日立製作所・富士産業・富士重工業・富士車輌・輸送機工業 同時に鋼製客車の新製も進められ、台枠流用の対象から外れた基本・中形客車の約半数と、雑形客車の淘汰による不足分を補った。1949年(昭和24年)に登場したオハ60系は小さな窓が並ぶタイプ(2ボックスに対し700 mm幅の窓が3枚)であったが、翌1950年(昭和25年)からはオハ35系と同様、窓を1ボックス毎の大窓(1,000 mm幅)としたオハ61系に移行した。さらにこれの側窓を2重窓化した北海道向けのオハ62系も製造された。 このグループは年度ごとの設計変更が少なく、形態の変化があまりない。それまでの客車と比較して外観上のバラエティーには乏しいが,たとえば苗穂工場施工車の妻構に補強用のリブが取り付けられるなど、各担当メーカー・工場ごとに細部に相違が存在した。 当時、木造車鋼体化の推進に重点が置かれ、木造車そのものの延命工事が控えられたことで、鋼体化優先順位を後回しにされた木造客車の老朽はより一層深刻化した。1951年(昭和26年)5月には総武本線四街道駅にて、木造客車の側溝が乗車率300 %に及ぶ乗客の圧力で外側に脹れ出して破損、運転不能となる、現在ではあり得ない事故まで発生している。このため、国鉄では使用に耐えられない木造客車を緊急廃車にしたが、影響で木造合造車の多かった郵便車が不足し、穴埋めにオハユニ61形が大増備されるという一幕もあった。 戦後に残存していた木造車の多くは三等座席車、荷物車、ないしそれらの合造車であった。だが木造の荷物車・合造車には鉄道院基本型客車を格下げ改造した個体も多く含まれ、鋼体化種車にできないものが多かったこと、魚腹台枠車の鋼体化方針が17mのままか20m延長か決まらず、20m延長での工事着手が1953年以降にずれ込んだことなどで、工事当初の改造種車は大型木造客車の三等座席車に集中した。結果、普通列車用の旅客車が不足、また老朽のひどい木造車の早期廃車を強いられたことで荷物・郵便等の合造車も不足し、一方で純新車の増備は進駐軍側の厳しい監督と国鉄の予算不足で自由にならなかった。最も需要の大きい三等車・荷物車が恒常的に払底し、鋼体化事業取り組みの期間、国鉄全体の深刻な輸送力不足の原因となった。国鉄の三等客車(ハ、ハフ)は1948年度に8,269両あったが、鋼体化着手の1949年度には7,914両、1950年度7,631両、1951年度7,437両と目に見えて減少しており、使用に耐えない老朽車の廃車進行、年々の旅客・荷物輸送需要増大に、鋼体化改造と新車増備とが追いついていなかったことがわかる。 鋼体化改装進行途上の1952年(昭和27年)6月の部内会議では、国鉄車両局から鋼体化客車の内装・材質について、安全に支障のない範囲での工数削減や仕上げ簡易化、実用に支障ない範囲でのメーカー手持ち部品の使用、材質のランクダウン許容(標準より軟質のラワン材の部分使用を認める)などの仕様変更が提示されている。これは、コスト問題などで木造車鋼体化が計画より遅れ、客車需給が窮迫していた当時の輸送状況や、既に鋼体化工事に参加していた民間メーカー以外にも新規参入するメーカーが生じたことが背景にあった。このあたりにも、多少仕上がりの質を落としても、鋼体化全体の促進を優先し、鋼体化改造を急がせた当時の事情がうかがわれよう。 国鉄の客車鋼体化改造は、これらの紆余曲折を経て、1955年度(1956年)までに計画を若干超過しながらも完了、国鉄では営業運行に使用される木造車全廃を達成した。ただしその後も、救援車など旅客用途以外の事業用車については、1965年ごろまで少なからず木造客車が残っており、電車では伊那電気鉄道買収車改造の木造付随救援車・サエ9320が1979年まで残存した。 なお、1,067mm軌間の私鉄については1970年代前半まで加悦鉄道や大分交通など一部の事業者で木造車が営業運転に使用されており、762mm軌間の尾小屋鉄道では外板に鋼板を打ち付けてあったが、木造車が1977年(昭和52年)の廃線まで現役で使用されていた。1,067mm軌間の別府鉄道土山線では1984年の廃止時点まで、木造2軸客車のハフ7(元神中鉄道ハフ20形)を営業運行に使用、名古屋鉄道では木造ボギー電車モ520形に外板鋼板打ち付け工事を施しつつ、1988年まで営業運行に供用していた。保存用を除くとこれらが日本における木造車による旅客営業の最後となる。 各形式車号の新旧対照および改造所については国鉄60系客車の新旧番号対照を参照のこと。
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