航空との出会いとは? わかりやすく解説

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航空との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/29 16:07 UTC 版)

ジョン・ヘンリー・タワーズ」の記事における「航空との出会い」の解説

ジャック”こと、ジョン・ヘンリー・タワーズ1885年1月30日ジョージア州ローム生まれる。祖父アメリカ連合国陸軍連隊長で、父もアメリカ連合国陸軍騎兵隊所属していた経験があり、いわゆる軍人一家」の家庭であるが、タワーズ生まれたころには農具販売業営んでいた。はじめは軍人ではなく技師志しジョージア工科学校進学するも、寄宿舎同居人態度たまりかねて退学し海軍兵学校アナポリス)に改め進学する1906年アナポリス卒業し卒業年次から「アナポリス1906年組」と呼称されたこの世代の同期には、フランク・J・フレッチャージョン・S・マケイン・シニアオーブリー・フィッチロバート・L・ゴームレーらがいる。1908年少尉任官したタワーズ戦艦ケンタッキー乗り組み経て1911年戦艦ミシガン乗り組みとなり、弾着観測担当するアメリカ戦艦一種特徴だった籠マスト頂部から観測を行うのがタワーズ役目だったが、高い場所とはいえ観測できる範囲には限度があった。タワーズは、弾着観測に関する疑問答えを、当時創世記段階だった「航空」に求めた1903年12月17日ライト兄弟の「ライトフライヤー号」による初の動力飛行以降アメリカ軍先に航空機手を出したのは陸軍だった。海軍航空機に縁ができるのは、遅く見積もって1910年11月14日民間パイロットユージン・バートン・イーリー軽巡洋艦バーミングハム」からの発艦実験嚆矢で、タワーズが「ミシガン」に配属されたのと同じ1911年1月18日には、同じくイーリー装甲巡洋艦ペンシルベニア」からの発艦および「ペンシルベニア」への着艦成功していた。1月27日には、海軍からサンディエゴノースアイランド派遣され、ヘリング・カーチス社社長グレン・カーチス指導受けていたセオドア・G・エリソン中尉アナポリス1905年組)が海軍軍人として初め飛行成功し海軍パイロット第1号となっていた。こうした人的な動き呼応し海軍は3機の航空機購入して航空隊育成本格的に開始する購入したとなれば一定の数のパイロット整備技師必要になり、海軍パイロット整備技師を各3名ずつ募った1911年6月27日パイロット志願したタワーズはハモンズポート(英語版)にあるヘリング・カーチス社のカーチス飛行学校入学する講師カーチス自身であり、タワーズ1911年8月より、カーチスエリソン指導の下、海軍第1号機であるカーチス A-1型水上機英語版)を使ってパイロットとして訓練を受ける。また、カーチス学校挙げてノースアイランド行きカーチス A-1型水上機改善行った際にも同行した1911年10月にはカーチス A-1型でアナポリスとオールド・ポイント・コンフォート(英語版)間112マイルの距離を、122分で踏破する新記録を樹立1912年秋、タワーズアナポリス設置される最初海軍航空隊設営監督した。同じ1912年10月6日にはガソリンタンクを増設しカーチス A-2型で、6時1035秒のアメリカ航続時間新記録達成し12月にかけてはチェサピーク湾上空飛んで潜航中の潜水艦発見するテスト行った1913年入りグアンタナモ湾行われた艦隊演習参加したタワーズ航空機偵察爆撃および写真偵察分野での可能性テストし研究した1913年5月8日中尉昇進したタワーズカーチス飛行艇使いゴッドフリー・シャヴァリア少尉アナポリス1910年組)とペア組んでワシントン海軍工廠出発してポトマック川チェサピーク湾経由しアナポリス到着する行程169マイル飛行行った。しかし、1カ月後の6月20日タワーズアクシデント見舞われる。この日、タワーズパイロットとしてではなく乗客としてウィリアム・ビリングスレイ(英語版少尉アナポリス1909年組)が操縦するライト英語版水上飛行機乗っていた。しかし、水上飛行機チェサピーク湾上空飛行中乱気流巻き込まれ急降下し、ビリングスレイは機外放り出されアメリカ海軍航空隊初の死者となってしまった。タワーズ座席から放り出される寸前だったが、とっさに支柱つかんで、機がチェサピーク湾不時着水するまでその態勢保った事故後、タワーズカーチス事故の状況話し、また報告書したためた。このときの報告書などが元となり、パイロット乗客安全に保護するシートベルトなどの安全装置考案された。 1914年1月20日タワーズは9名の士官23名の人員および航空機7機とともにアナポリスからフロリダ州ペンサコーラ移動しペンサコーラの地に海軍飛行学校英語版)を設立する礎とした。4月20日には2名のパイロット12名の下士官・兵および航空機3機からなる最初航空隊率いてペンサコーラから「バーミングハム」に乗りタンピコ事件参加してアメリカ海軍航空隊初の実戦参加記録した1915年1月海軍パイロットの登録を公式に開始しタワーズ1914年さかのぼって海軍パイロット第3号として登録された。少佐に昇進したタワーズ海軍省航空課に配属され1917年にはパイロット徽章作成担当した徽章配布1918年1月19日から始まりタワーズはこの時点ワシントンD.C.にいた海軍パイロットの中で、もっとも古参で、かつ高位位置していた。

※この「航空との出会い」の解説は、「ジョン・ヘンリー・タワーズ」の解説の一部です。
「航空との出会い」を含む「ジョン・ヘンリー・タワーズ」の記事については、「ジョン・ヘンリー・タワーズ」の概要を参照ください。

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