経済成長基盤の構築
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朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人全斗煥が、1980年5月17日に「5・17非常戒厳令拡大措置」で実権を掌握した後、第11代、第12代大韓民国大統領として朴正煕の開発独裁路線を継承したため、強圧的な独裁政治は批判され続けていた。しかし、1987年6月29日の「民主化宣言」以後、その達成感によって民主化運動が退潮し始めたこと、生活が豊かになったと国民が感じ始めたことで、開発独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長により、大韓民国を中華民国(台湾)・シンガポール・香港と並ぶ「アジア四小龍の一つ」とまで言わしめることとなる足がかりを作ったことや、軍事政権下の治安の良さを再評価する動きが出て来た。 特に政敵であった金大中が、1997年大統領選挙を控えて保守票を取り込むために統合を掲げながら朴正煕時代の経済発展を評価することもした。もちろん、金泳三のように死ぬ日まで朴正熙を批判した政治家もいた。 金泳三の場合、経済政策も場面内閣計画をクーデター、全部奪って行ったとし、朴正熙を低く評価した。 内政は典型的な開発独裁であった。軍備増強よりも経済基盤の建設を優先した。軍人としては珍しく強い経済マインドを持つ人物だった。朴正煕が経済を最優先とした理由については様々な議論がある。子供のころの貧しさからの経験であるという主張に加え、5.16クーデタの他の主要人物も経済成長を重視したという主張もある。批判的な立場からはクーデタ政権の継続的な権力掌握の正統性確保のためだったとする主張もある。経済成長のモデルケースとして朴正煕は春秋戦国時代の中国や明治維新期の日本の富国強兵の論理をよく強調したという。 クーデター直後、最初に着手したのは農村における高利債整理法(一種の徳政令)であった。工業化にある程度成功した頃には農業の遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。教育政策にも、高等学校を大幅に増設し、高等教育機関への進学率をアジア随一のものにさせるなど力を入れた。また人事面においても、釜山市の都市建設で力量を発揮した工兵将校出身の金玄玉をソウル市長に抜擢するなど、格式を無視して人材を要職に登用した。 終生のライバルであった同じ朝鮮民族の分断国家、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の初代最高指導者、金日成に体制競争を挑み、1961年の5・16軍事クーデターの時点では北朝鮮よりも経済的に貧しかった大韓民国を「漢江の奇跡」による高度経済成長の実現で経済格差を付け、南北朝鮮の力関係が大きく変化したことは、東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。経済的な成功を体制の正統性の根拠としてアピールしたのは、むしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、「漢江の奇跡」によって大韓民国に追い抜かれた北朝鮮は、経済面のみならず人民に対して支配を正当化する上でも慢性的な苦境に陥った。 支持者からは「独裁政権」ではあるものの、日本から経済援助を引き出し、韓国に秩序と経済発展をもたらしたのも事実であり、見直すべきとの声も根強い。かつて朴正煕批判で職を追われたことがある趙甲濟も、「日本の一流の教育とアメリカの将校教育を受けた、実用的な指導者だった」と、暗殺事件の取材を通じて以前の否定的な見解を変えている。 ただ、朴正熙批判者たちの間では、経済的成果が、支持者たちによって誇張された面が多いという指摘も出ている。引用される数値もまちまちであること、在任中に経済成長率よりも物価上昇率が高い物価高の時代だった事など、任期期間と莫大な海外援助金を考慮すれば過大評価されたという批判もある。 さらには海外から受け取った援助金をスイスの銀行などに個人資産として着服した疑惑もマスコミを通じて地道に出ている。 1997年、韓国のIMF経済危機以降、2000年代、朴正熙再評価が行われて人気を得たが、2010年代、盧武鉉元大統領に人気を追い越された 。 朴正熙の経済政策は"圧縮成長"と呼ばれる。 これは早いスピードで経済成長の基盤をなす意味のほかにも、労働弾圧など様々な問題には、目をつぶって"効率最優先"路線を走ったという批判的意味も含む。
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