経済成長のひずみと革新自治体の隆盛
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「革新自治体」の記事における「経済成長のひずみと革新自治体の隆盛」の解説
革新派の反転攻勢のきっかけとなったのは、1960年代半ばになって高度経済成長による負の遺産が明らかになってきたことにある。60年代で東京・名古屋・大阪圏の人口は3割上昇したが、政府によるインフラ整備は経済発展に必要な交通・通信網の整備や工業団地の造成など産業振興に関わるインフラが優先され、住宅・学校・病院などの民生インフラは後回しにされがちであった。また、1961年に公害の存在が明るみに出て、工業の発展と環境破壊との問題がクローズアップされるようになった。歴代保守政権の施策の負のひずみに対する反感が、革新自治体を産み出す輿論となっていったのである。 1963年4月の第5回統一地方選挙では、横浜市長に社会党左派の飛鳥田一雄が当選する。この時期はまだ革新への追い風は吹いておらず、市長の当選数も前回より減らしていた。飛鳥田の当選も保守分裂の間隙をついたものあり、何より飛鳥田本人は急遽立候補させられたため、本音では乗り気ではなかった。しかし、就任後の飛鳥田は、小規模な住民集会を市の主催で開いて自身も出席し、また住宅地建設企業に学校などの社会資本の併設を要求するなど、市民を巻き込んでの民生重視の市政を運営する。 革新自治体の時代が始まったのは1963年の飛鳥田の当選だと永らく言われてきたが、規模としての拡大は1967年が始まりにふさわしい。これは、63年に初当選した革新首長のうち、67年のブームの時点でその立場を貫いたのは飛鳥田のみであったため、革新首長の「1期先輩」として飛鳥田の権威付けのためにブレーンが脚色をしたのと、社会党が革新ブームに乗り遅れたのを焚き付けるために63年の飛鳥田を誇張して持ち上げたという側面がある。 1967年の第6回統一地方選挙では、東京都知事に美濃部亮吉を「明るい革新都政をつくる会」(革新都民党)候補として擁立、自民・公明がそれぞれ独自候補を立てて票が割れたため、美濃部が当選した。 美濃部はその施策として、それまでの都政で日の当たらなかった老人、障害者らに対する福祉政策、無認可保育所の設置、離島対策などを行った。美濃部は特に主婦層に人気が高く、1971年の第7回統一地方選挙では美濃部が圧勝する。さらに、大阪府知事に黒田了一が就任する。この統一地方選では7知事が革新系となり、4500万人が革新首長の下で生活しているといわれた。
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