第1の哨戒 1944年10月 - 12月とは? わかりやすく解説

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第1の哨戒 1944年10月 - 12月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 08:23 UTC 版)

アトゥル (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1944年10月 - 12月」の解説

10月9日、アトゥルは最初哨戒でピンタド (USS Pintado, SS-387) およびジャラオとウルフパック「クラーレイズ・クラッシャーズ Clarey's Crushers」を組んでルソン海峡および南シナ海方面向かった西方への巡航の間に訓練行い10月11日、アトゥルは2つレーダー反応確認する反応追跡し、3隻がその反応を囲む様に態勢整えたが、それらは結局僚艦プライス (USS Plaice, SS-390) とスレッシャー (USS Thresher, SS-200) であった一行10月21日サイパン島タナパグ湾(英語版)に到着し給油および小修理行った翌日早く出航した10月25日ウルフパック最初戦果挙げる。ジャラオが軽巡洋艦多摩攻撃しこれを撃沈する多摩エンガノ岬沖海戦空襲により大破しており、北方向けて後退であった一行レイテ沖海戦損傷した敵艦捜索2日費やしたその後ウルフパック哨戒海域ルソン海峡および南シナ海へと移動した。 その数日間、アトゥルは何度かの接触持ったものの会敵には至らなかった。11月1日0時過ぎ、アトゥルはレーダーによって高速護衛をつけながら航行する目標探知。アトゥルは激浪スコール中船団に接近し4時35分、アトゥルは北緯2017東経11738分 / 北緯20.283度 東経117.633度 / 20.283; 117.633の地点客船浅間丸日本郵船16,975トンに対して魚雷を6本発射魚雷3、4本命中し最初魚雷命中は物凄い爆発引き起こした2本目3本目は船倉命中し浅間丸急速に沈没していった。護衛艦のうちの1隻がアトゥルの方に向かってきたので急速潜航し潜没してから9発の爆雷爆発したものの、アトゥルからは離れた場所での爆発だった。反撃が収まるとアトゥルは浮上し周辺海面一帯大きな油膜多量残骸があるのを確認した。 アトゥルは引き続き香港マニラ間の航路を、時折接触報告調査したウルフパック指揮官指令で特別行動取りながら哨戒11月2日、ジャラオが20ノット航行する5つ目標探知しウルフパックはこの目標向かっていった。アトゥルはついに目標捕らえることはできなかったが、ピンタドが接触成功し弾薬搭載してブルネイに向かう日本海軍空母隼鷹と、それを援護する軽巡洋艦木曾駆逐艦に対して攻撃し駆逐艦秋風撃沈その時起こった爆発はアトゥルでも感じられた。その後10日間は、時折船か航空機発見したものの、攻撃までには至らなかった。11月13日、ジャラオが敵を発見。アトゥルとピンタドはこれを迎撃できる位置移動した。8時50分、アトゥルは戦艦前檣思われるものを発見10時までには、相手空母重巡洋艦駆逐艦判断された。アトゥルは巧みに接近し魚雷射程内に入ってくるようジグザグ航行をするよう望んでいた。やがて、アトゥルのお望みどおり相手ジグザグ航行をしてきたが、最終的に1115分接触失った。アトゥルは引き続き磁気探知機装備した航空機対峙した。これらの航空機時折潜水艦同士交信を英語や日本語妨害しつつ対潜爆弾投下。アトゥルも14発の対潜爆弾投下されたが被害はなかった。しかし、一連の攻撃ハリバット (USS Halibut, SS-232) が損傷した。やがて日本機のしつこい攻撃から避けるべく、アトゥルは台湾西方海域移動した11月20日深夜、アトゥルはスロー航行する初春型駆逐艦判断した艦艇発見しスコール利用して接近。やがて、相手の姿が完全なシルエットとして浮かび上がり、アトゥルは魚雷を4本発射3番目に発射した魚雷命中し目標は大爆発起こした。3分後には沈み始めその際搭載していた爆雷爆発し沈降早めていった。この初春型駆逐艦思われ目標は第38号掃海艇だった。11月24日、アトゥルはバタン諸島サブタン島近海で、1隻の輸送船と3隻の護衛艦発見。アトゥルは浮上し先回りして船団待ち伏せた。25日1時15分、アトゥルは北緯2014東経12150分 / 北緯20.233度 東経121.833度 / 20.233; 121.833の地点艦首発射管から6本、艦尾発射管から2本の魚雷重なった目標向けて発射魚雷は元特設潜水母艦さんとす丸満珠丸)(大阪商船、7,266トン)と第38号哨戒艇それぞれ2本命中。第38号哨戒艇瞬時沈没しさんとす丸間を置かず沈没していった。アトゥルは他の護衛艦視界外に一旦離脱しその後哨戒再開した11月27日、アトゥルはディアデケイ島とイヴモス島の近海レーダーより目標を探知。ディアデケイ島の北を回って目標接近し輸送船対し距離1,800メートル魚雷を4本発射。4本全て命中し輸送船は大爆発。その炎は、15マイル離れた場所からでも確認できた。しかし、この戦果戦後の調査日本側に該当する記録がなかったため、戦果として認定されなかった。翌28日、アトゥルは哨戒終了した。アトゥルは最初哨戒で4隻27,000トン戦果挙げた12月11日、アトゥルは60日間行動終えてマジュロ帰投潜水母艦ブッシュネル (USS Bushnell, AS-15) による整備を受け、12月中はジャラオ、スペードフィッシュ (USS Spadefish, SS-411) 、ポンポン (USS Pompon, SS-267) との6日間に及ぶ訓練などに費やされた。

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第1の哨戒 1944年10月 - 12月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/24 03:32 UTC 版)

ジャラオ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1944年10月 - 12月」の解説

10月9日、ジャラオは最初哨戒でピンタド (USS Pintado, SS-387) 、アトゥル (USS Atule, SS-403) と共にウルフパック「クラーレイズ・クラッシャーズ Clarey's Crushers」を構成してルソン海峡方面向かった途中、「クラーレイズ・クラッシャーズ」は台湾東方海上に向かうよう指令された。これは10月後半レイテ沖海戦の間にフィリピンから日本への航路上で偵察位置確保するのが目的だった。10月25日20時4分、ジャラオはレーダー25,000メートル位置目標探知し、ピンタドに報告した。この目標は、小沢治三郎中将率い機動部隊の一艦で、海戦損傷受けた軽巡洋艦多摩だった。ジャラオは多摩接近し攻撃位置付いた23時1分、ジャラオは多摩向けて艦首発射管から魚雷3本発射艦首発射管のうち1つ故障していて使えなかった。この攻撃首尾よく行かなかったので、ジャラオは反転して艦尾発射管から魚雷3本発射魚雷はすべて命中し多摩2つ折れて沈没していった。ジャラオはその後11月28日まで哨戒続けた12月10日、ジャラオは61日間行動終えてマジュロ帰投した。

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