第1の哨戒 1944年10月 - 12月
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「アトゥル (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1944年10月 - 12月」の解説
10月9日、アトゥルは最初の哨戒でピンタド (USS Pintado, SS-387) およびジャラオとウルフパック「クラーレイズ・クラッシャーズ Clarey's Crushers」を組んでルソン海峡および南シナ海方面に向かった。西方への巡航の間に訓練を行い、10月11日、アトゥルは2つのレーダー反応を確認する。反応を追跡し、3隻がその反応を囲む様に態勢を整えたが、それらは結局僚艦のプライス (USS Plaice, SS-390) とスレッシャー (USS Thresher, SS-200) であった。一行は10月21日にサイパン島のタナパグ湾(英語版)に到着し、給油および小修理を行った後翌日早くに出航した。10月25日にウルフパックは最初の戦果を挙げる。ジャラオが軽巡洋艦多摩を攻撃しこれを撃沈する。多摩はエンガノ岬沖海戦で空襲により大破しており、北方へ向けて後退中であった。一行はレイテ沖海戦で損傷した敵艦の捜索に2日を費やした。その後ウルフパックは哨戒海域をルソン海峡および南シナ海へと移動した。 その数日間、アトゥルは何度かの接触を持ったものの会敵には至らなかった。11月1日0時過ぎ、アトゥルはレーダーによって高速で護衛をつけながら航行する目標を探知。アトゥルは激浪とスコールの中船団に接近し、4時35分、アトゥルは北緯20度17分 東経117度38分 / 北緯20.283度 東経117.633度 / 20.283; 117.633の地点で客船浅間丸(日本郵船、16,975トン)に対して魚雷を6本発射。魚雷は3、4本命中し、最初の魚雷の命中は物凄い爆発を引き起こした。2本目と3本目は船倉に命中し、浅間丸は急速に沈没していった。護衛艦のうちの1隻がアトゥルの方に向かってきたので急速潜航し、潜没してから9発の爆雷が爆発したものの、アトゥルからは離れた場所での爆発だった。反撃が収まるとアトゥルは浮上し、周辺海面一帯に大きな油膜と多量の残骸があるのを確認した。 アトゥルは引き続き、香港とマニラ間の航路を、時折接触報告を調査したりウルフパック指揮官の指令で特別行動を取りながら哨戒。11月2日、ジャラオが20ノットで航行する5つの目標を探知し、ウルフパックはこの目標に向かっていった。アトゥルはついに目標を捕らえることはできなかったが、ピンタドが接触に成功し、弾薬を搭載してブルネイに向かう日本海軍の空母隼鷹と、それを援護する軽巡洋艦木曾、駆逐艦に対して攻撃し、駆逐艦秋風を撃沈。その時に起こった爆発はアトゥルでも感じられた。その後の10日間は、時折船か航空機を発見したものの、攻撃までには至らなかった。11月13日、ジャラオが敵を発見。アトゥルとピンタドはこれを迎撃できる位置に移動した。8時50分、アトゥルは戦艦の前檣楼と思われるものを発見。10時までには、相手は空母、重巡洋艦、駆逐艦と判断された。アトゥルは巧みに接近し、魚雷の射程内に入ってくるようジグザグ航行をするよう望んでいた。やがて、アトゥルのお望みどおり相手はジグザグ航行をしてきたが、最終的には11時15分に接触を失った。アトゥルは引き続き、磁気探知機を装備した航空機と対峙した。これらの航空機は時折、潜水艦同士の交信を英語や日本語で妨害しつつ対潜爆弾を投下。アトゥルも14発の対潜爆弾を投下されたが被害はなかった。しかし、一連の攻撃でハリバット (USS Halibut, SS-232) が損傷した。やがて日本機のしつこい攻撃から避けるべく、アトゥルは台湾西方海域に移動した。 11月20日深夜、アトゥルはスローで航行する初春型駆逐艦と判断した艦艇を発見し、スコールを利用して接近。やがて、相手の姿が完全なシルエットとして浮かび上がり、アトゥルは魚雷を4本発射。3番目に発射した魚雷が命中し、目標は大爆発を起こした。3分後には沈み始め、その際搭載していた爆雷が爆発し、沈降を早めていった。この初春型駆逐艦と思われた目標は第38号掃海艇だった。11月24日、アトゥルはバタン諸島サブタン島近海で、1隻の輸送船と3隻の護衛艦を発見。アトゥルは浮上し、先回りして船団を待ち伏せた。25日1時15分、アトゥルは北緯20度14分 東経121度50分 / 北緯20.233度 東経121.833度 / 20.233; 121.833の地点で艦首発射管から6本、艦尾発射管から2本の魚雷を重なった目標に向けて発射。魚雷は元特設潜水母艦さんとす丸(満珠丸)(大阪商船、7,266トン)と第38号哨戒艇にそれぞれ2本命中。第38号哨戒艇は瞬時に沈没し、さんとす丸も間を置かず沈没していった。アトゥルは他の護衛艦の視界外に一旦離脱し、その後哨戒を再開した。 11月27日、アトゥルはディアデケイ島とイヴモス島の近海でレーダーにより目標を探知。ディアデケイ島の北を回って目標に接近し、輸送船に対し距離1,800メートルで魚雷を4本発射。4本全てが命中し、輸送船は大爆発。その炎は、15マイル離れた場所からでも確認できた。しかし、この戦果は戦後の調査で日本側に該当する記録がなかったため、戦果として認定されなかった。翌28日、アトゥルは哨戒を終了した。アトゥルは最初の哨戒で4隻27,000トンの戦果を挙げた。12月11日、アトゥルは60日間の行動を終えてマジュロに帰投。潜水母艦ブッシュネル (USS Bushnell, AS-15) による整備を受け、12月中はジャラオ、スペードフィッシュ (USS Spadefish, SS-411) 、ポンポン (USS Pompon, SS-267) との6日間に及ぶ訓練などに費やされた。
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「ジャラオ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1944年10月 - 12月」の解説
10月9日、ジャラオは最初の哨戒でピンタド (USS Pintado, SS-387) 、アトゥル (USS Atule, SS-403) と共にウルフパック「クラーレイズ・クラッシャーズ Clarey's Crushers」を構成してルソン海峡方面に向かった。途中、「クラーレイズ・クラッシャーズ」は台湾の東方海上に向かうよう指令された。これは10月後半のレイテ沖海戦の間にフィリピンから日本への航路上で偵察位置を確保するのが目的だった。10月25日20時4分、ジャラオはレーダーで25,000メートルの位置に目標を探知し、ピンタドに報告した。この目標は、小沢治三郎中将率いる機動部隊の一艦で、海戦で損傷を受けた軽巡洋艦多摩だった。ジャラオは多摩に接近し、攻撃位置に付いた。23時1分、ジャラオは多摩に向けて艦首発射管から魚雷を3本発射。艦首発射管のうち1つは故障していて使えなかった。この攻撃は首尾よく行かなかったので、ジャラオは反転して艦尾発射管から魚雷を3本発射。魚雷はすべて命中し多摩は2つに折れて沈没していった。ジャラオはその後11月28日まで哨戒を続けた。12月10日、ジャラオは61日間の行動を終えてマジュロに帰投した。
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