独立、「Pヴァーゲン」と「フォルクスワーゲン」の開発
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「フェルディナント・ポルシェ」の記事における「独立、「Pヴァーゲン」と「フォルクスワーゲン」の開発」の解説
1931年秋、シュトゥットガルトに設計とコンサルティングを行なうポルシェ事務所(Dr. Ing. h.c. F. Porsche GmbH, Konstruktionen und Beratungen für Motoren und Fahrzeugbau )を設立した。社員にはかつての同僚や、ボッシュで徒弟期間を終えて来たばかりの息子フェリー・ポルシェらがいた。 最初の仕事はヴァンダラーからの注文で、2,000cc級中型車の設計だった。ポルシェ事務所は設計について通し番号で呼ぶことにしたが、この最初の作品は依頼者に危惧を与えないようタイプ1でなくタイプ7とした。 タイプ7は成功し、ヴァンダラーはより大型かつ高性能な自動車の設計を発注して来たので、8気筒OHVスーパーチャージャー付き3,250ccエンジンを積んだタイプ8が設計され試作された。このタイプ8にはシュトゥットガルト大学のカム博士が当時珍しかった風洞実験を行なった結果到達した流線型ボディーがロイター(現レカロ)の製作により架装されていたが、ヴァンダラーがアウトウニオンの結成に参加したため生産には至らなかった。このカム博士の流線型理論は後のフォルクスワーゲンのボディー形状に影響を与えている。 ドイツ国内外の主要メーカーからの委嘱によって自動車設計を手がける一方、当時の技術における理想的なレイアウトのリアエンジン式・流線型小型大衆車の開発を試みるが、提携先メーカー各社の充分な協力が得られず、資金不足により頓挫した。この時設計したタイプ12がのちのフォルクスワーゲンの原型となった。 ポルシェは設計者としての能力は傑出していたものの新技術の開発自体はあまり多くなかったが、この時代には横置きトーションバーを上下2段に配置して2本のトレーリングアームで車輪を支持する、前輪向けのコンパクトな「ポルシェ式独立懸架」を考案している。フォルクスワーゲンなど自らの開発するモデルに利用したほか、アルファロメオ、シトロエン、ボクスホール、モーリスなど多数のメーカーが特許料を払ったり、直接ポルシェに設計を依頼してこの方式を用いた。 この頃、ソビエト連邦からの招聘を受けてヨシフ・スターリンと面会し、スターリンはソ連で自動車開発のために働くことを提案した。当時のソ連はフォードから旧式モデルのツールをプラントごと購入するなどして国産自動車の開発に邁進しており、ドイツとも密かに関係を結んで戦車開発を進めていたのである。このためスターリンはポルシェにも好条件のオファーを示し、ポルシェ本人も相当苦しんだと述懐しているが、「ロシア語の壁は、56歳の自分にはとても乗り越えられない」として辞退した。 1933年に、ドイツの覇権を握った独裁者アドルフ・ヒトラーから歓喜力行団を通じて、国民車(ドイツ語でフォルクスワーゲン)の設計を依頼された。ようやく理想の小型大衆車開発を実現したポルシェは、3年後の1936年には流線型ボディ・空冷リアエンジン方式の1,000cc試作車を完成、1938年には計画通りの量産化に着手している。この際、車名はヒトラーにより「KdF-Wagen」(歓喜力行車)とされた。後の、「かぶと虫」(独: Käfer、英: ビートル)の愛称で世界的に親しまれ名車フォルクスワーゲン・タイプ1である。当記事では以降「フォルクスワーゲン」とする(企業名と混同せぬよう注意)。 またこれと並行し、やはりヒトラーの後援を受けたアウトウニオンの依頼で、ミッドシップ方式のレーシングカー「Pヴァーゲン」を1934年に開発。同時期に開発されたライバル「メルセデス・ベンツ・W25」シリーズと並ぶ高性能レーサーであり、両車はヨーロッパの多くのレースを席巻した。1936年にはヴィルヘルム・エクスナー・メダルを、1938年にはノーベル賞に対抗してナチス・ドイツが制定したドイツ芸術科学国家賞を受賞した。当時モーリスにいたアレック・イシゴニスはこの車両に強い感銘を受け、アウトウニオンのシャシをスケールダウンとともに簡略化したような構造の750ccスプリントカーを製作した程であった。 フォルクスワーゲンとアウトウニオン・レーサーは、いずれもポルシェの開発能力だけでは成立し得ず、ヒトラーの意向による国家的後援があっての存在であった。廉価で高性能なフォルクスワーゲンはヒトラーが大衆政策として開発を指示したものであり、銀色のアウトウニオンは、国威発揚のための宣伝の具であった。その他第二次世界大戦直前から戦争中にかけてポルシェは風力でプロペラを回す風力発電機、フォルクスワーゲンエンジンを流用したサーチライト用エンジン、5気筒星型エンジンをアンダーフロアに搭載したバス、新型ラバーサスペンション、V16エンジンをミッドシップし横掛け3人乗りのPヴァーゲンなど多様なデザインをこなした。その中でも特筆すべきは速度記録車T80である。 詳細は「メルセデス・ベンツ・T80」を参照 純粋な技術者で政治に関心のなかったポルシェは、ヒトラーに対しても「総統閣下」などの敬称を用いずに「ヒトラーさん」と一般人同様の呼び方をしていた。しかしポルシェの才を買っていたヒトラーは気にせず受け入れ、開発資材も潤沢に与えた。
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