漢学から支那学へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 08:28 UTC 版)
明治維新後、日本の教育・研究の体系は、近代国家に相応しいものとして洋学を主軸としたものに一新された。江戸幕府の漢学(儒学)教育・研究機関であった昌平坂学問所などを前身に、1877年日本最初の大学として設立された東京大学(その後帝国大学⇒東京帝国大学に改称)では、文科の「第二科」として「和漢文学」が設置(のち1889年に「漢学科」が分離)され、竹添井井(甲申政変時の朝鮮駐在公使)らの漢学者が教授として採用された。これに対し1897年第2の大学として設立された京都帝国大学では、文科に東洋史学・支那哲学・支那文学の3講座を設置、その後東京帝国大学もこの構成にならうに及び、アカデミズムのなかで近代的な中国学が制度化されたのである。この結果、従来中国の思想・歴史・文学を渾然一体のまま学んできた「漢学」という学問は、ヨーロッパ的学問体系にしたがい、文学部(文科)のなかで哲・史・文の3分野に分離された。 明治期には新しい中国学のなかにも漢学的伝統の影響が残り続けた。先述の通り東大においては特に漢学の影響が強く、また漢学者の貢献として林泰輔の甲骨文字研究、簡野道明・諸橋轍次による漢和辞典編纂、一大叢書『漢文大系』(冨山房版)編集への協力があった。しかし帝国大学で育成された白鳥庫吉・服部宇之吉・狩野直喜ら新世代の中国学者たちがドイツ・フランスなどに留学し当時最先端の文献学的シノロジーの方法を吸収して帰国すると、漢学者たちに代わって彼らが研究の主流になっていった。特に新設の京都帝大では、留学中シャヴァンヌと交流を持った狩野直喜が教授に迎えられたこともあって、フランス・シノロジーの強い影響を受けた学風を形成した。この狩野に、ジャーナリスト出身で独自の文化史観を展開した内藤湖南、中国留学により清朝考証学の方法を吸収した桑原隲蔵が加わり「京大支那(シナ)学」と称される一大学派が形成されたのである。 日本における支那学の特徴は、古来より中国と同じ文化圏に属し、さらに漢学の知的蓄積を全面的に継承・利用することが可能であったため、漢文文献の読解・分析に勝れている点が挙げられる。だが新世代の中国学者たちがそうした強みを生かし、また新たに学んだ西洋文献学の手法も取り入れてオリジナルな研究成果を発表するようになるのは、とくに日清・日露戦間期以降のことである(それ以前は那珂通世『支那通史』など概説的・啓蒙的レベルに止まっていた)。この時期日本は中国を含む東アジアへの帝国主義的進出を本格化し、中国に対する社会的関心が高まった。さらに同時期、スタインやペリオなどヨーロッパ人学者による西域の探検調査が行われ、その成果が大々的にアピールされたことは、いわば「お家芸」を自負してきた日本の中国学者たちに危機感を抱かせることになった。この結果、日本独自の業績を発信しようとする動きが起こり、京都帝大の哲・史・文の支那学者は前記の狩野・内藤・桑原らを中心に大同団結し、西洋のシノロジーを強く意識し自らの学問を「支那学」と称した。そして研究団体として「支那学会」を結成、1920年には学会の事実上の機関誌として『支那學』を創刊、1947年まで刊行を続けた。 1924年には三菱財閥が購入した中国関連の欧文書籍コレクション「モリソン文庫」を基に、漢文文献を加えて東洋文庫が設立され、研究機能を併せもつ日本最初の中国学・東洋学の専門図書館となった。昭和時代に入ると、日中共同の東方文化事業(中国からの義和団の乱賠償金を基金に運営)の一環として東方文化学院が1929年に東京・京都に設立され、古典学的な中国学研究を担っていくことになった。東方文化学院はその後廃止されるが、その東京研究所は東京大学東洋文化研究所に吸収、京都研究所は京大に移管され現在の人文科学研究所および漢字情報研究センターの前身となっている。
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