漢安・建康年間(142年 - 144年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:35 UTC 版)
「順帝 (漢)」の記事における「漢安・建康年間(142年 - 144年)」の解説
漢安元年(142年)正月、大赦を発布した。8月、南匈奴の左部大人の句龍吾斯は薁鞬臺耆らと反乱を起こした。侍中の杜喬、光禄大夫の周挙、守光禄大夫の郭遵、馮羨、楽巴、張綱、周栩、劉班ら8人が州郡に派遣された。9月、広陵の盗賊の張嬰らが郡県を侵攻した。10月、太尉の桓焉と司徒の劉寿が免職となり、車騎将軍代行の張喬も罷免された。11月、趙峻が太尉、胡広が司徒となった。広陵の賊の張嬰らは年内のうちに太守の張綱に降伏した。 漢安2年(143年)2月、鄯善国が使いを送ってきた。4月、護羌校尉の趙沖と漢陽太守の張貢は焼当羌と参楽において戦い、これを破った。6月、南匈奴において守義王兜楼儲が単于となった。閏10月、趙沖が焼当羌と阿陽において戦い、これを破った。11月、使匈奴中郎将の馬寔は刺客を送り句龍吾斯を殺害した。12月、揚州と徐州の盗賊が焼城寺を攻め、吏民を殺傷した。 建康元年(144年)正月、前年に涼州で180回も地震があったことを受けて詔勅が下され、鎮撫のために光禄大夫の派遣が決定された。3月、領護羌校尉の衛琚は叛羌を追討し、これを破った。南郡と江夏の盗賊が城邑を略奪したが、州郡がこれを追討し平定した。4月、使匈奴中郎将の馬寔が南匈奴左部を攻撃しこれを破ったため、胡羌や烏桓はことごとく降伏した。皇子の劉炳(沖帝)を皇太子とし、建康と改元し大赦を天下に発布した。8月、揚州と徐州の盗賊である范容、周生らが城邑を略奪したが、御史中丞の馮赦が遣わされ、州郡の兵士を督してこれを討った。 順帝は玉堂前殿に死去した。30歳であった。
※この「漢安・建康年間(142年 - 144年)」の解説は、「順帝 (漢)」の解説の一部です。
「漢安・建康年間(142年 - 144年)」を含む「順帝 (漢)」の記事については、「順帝 (漢)」の概要を参照ください。
- 漢安・建康年間のページへのリンク