漢学の再興
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明治10年(1877年)9月に中村敬宇、重野安繹、川田甕江、鷲津毅堂、阪谷朗廬、川北梅山、南摩綱紀らと邸内に経国文社を興す。経国文社の名は曹丕『典論』の「文章経国之大業、不朽之盛事(文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり)」に因み、師斎藤拙堂から教訓として「経国之大業」なる書が贈られた。そして10月10日、48歳のとき、東京府麹町区一番町43番地に漢学塾二松學舍を創立した。翌月には二松學舍分校となる柳塾を湯島天神町三丁目3番地内の西郷盛之邸内に設ける。翌年1月東京師範学校漢学教授となる。11月には二松學舍に洋算一科を増設する。 明治25年(1892年)9月、國學院教授となる。明治32年(1899年)3月、文学博士の学位を受ける。翌年、7月二松學舍に国語科(現在の国文学科)を併置する。明治45年(1912年)8月、東宮侍講を辞し、宮内省御用掛を拝命する。大正8年(1919年)5月12日、流行性感冒(スペインかぜ)のため三番町の自宅で死去する(90歳)。正三位に叙し旭日大綬章を授与される。
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