流行初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:52 UTC 版)
疫病はその感染者を見た経験のない医療従事者にとってはかなり珍しいものだった。医科大学を卒業した人間から、当時医師としても活動した薬剤師、単なる山師等、医学的訓練にはばらつきがあった。前年に流行した天然痘の流行のように、ほかの疾患も多数存在した。これらの不確実性のため、疫病がいつから始まったことを特定することは困難となった。 同時代の証言では、1664年から65年にかけての冬に発生した症例のうち、いくつかは致命的となったが、その他の症例にはのちの流行の時に見られた感染性は見られない。その時の冬は寒く、1664年12月から1665年3月まで地面は氷結し、氷のためテムズ川の交通は2回止まった。この寒冷な気候が流行を食い止めた原因かもしれない。 このイングランドにおける腺ペストの流行はオランダから来たものと考えられている。オランダでは1599年から断続的に腺ペストが発生していた。腺ペストの最初の症例が何だったかは不明だが、アムステルダムから木綿を輸送してきたオランダの商船から来た可能性がある。アムステルダムでは1663年から1664年にかけて大流行があり、5万人の死者が発生していた。 疫病が最初に発生した地域はロンドンのすぐそばにある港、セント・ジャイルズ教区だと考えられている。そのどちらとも、粗末な建物が立ち並び、貧しい労働者が多い地域であった。1664年と1665年2月、疫病死の可能性のある死亡例が2例セント・ジャイルズ教区で報告された。死亡表には疫病死として報告されなかったため、市政府は何の対策も講じなかったが、1665年の最初の4か月以来、ロンドンでの死亡数は明らかに増加を示した。4月の終わりまでに記録された疫病死はセント・ジャイルズ教区の2例の他はわずか4例であったが、週当たり死亡数は290から398に上昇した。 4月に公式に報告された疫病死は4例あり、従来この水準であれば特段の公的対応は行われていなかったが、市民議会は家屋に対する隔離を実施した。ミドルセックス州の治安判事は疑わしい死亡例が出た場合には、結果がでるまで調査と隔離を行うことを指示した。それから間もなく、同様の指示がロンドン市とその自由区域にも発行された。初めて家屋が隔離された時、セント・ジャイルズ教区では暴動が発生し、群衆が戸を破壊して中の住人を解放した。暴徒は逮捕され、厳しい処分を受けた。患者が治療するか死ぬまで、他の人々から隔離して治療を行う隔離病院であるペストハウスの建造を命じる指示も発行された。政府の対応からは、数例の報告例であっても、すでに疫病の大流行の予兆と考えていたことが示唆される。 気候が温暖になると、疫病が蔓延し始めた。5月2日~9日、セント・ジャイルズ教区で3人、近隣のセント・クレメント・デーンズ教区では4人、セント・アンドリュー・ホールボン教区とセント・メアリー・ウールチャーチ・ハウ教区ではそれぞれ1人の疫病死が報告された。 このうちロンドン市内の症例は最後の1例のみであった。市民議会は疫病の流行を防ぐ最良の方法を検討する委員会を発足させたほか、発生地域のエールハウスのいくつかを閉店させ、1軒あたり居住者の数を制限する措置をとった。ロンドン市長はすべての住民は敷地外の街路を清潔に保つべく精勤するよう声明を出した。清潔を保つことは地主の責任であり、市当局の責任ではなかった(汚物がひどくたまった場合のみ、掃除人を雇っていた)。 状況が切迫すると、参事会はその義務を果たしていない住民を発見し、処罰するよう指示を発行した。 セント・ジャイルズ教区での疫病死が増加すると、地域全体を隔離しようと試みられたほか、浮浪者や不審者を封じ込め、旅行者を全例検査する指示が発行された。 人々もまた気づき始めた。海軍本部の重鎮であり、ロンドンに在住したサミュエル・ピープスが同時代の記録を日記に残している。 4月30日の記録はこうなっている。「疫病に対する大きな恐怖のため、2、3件の家は早くも締め切られていると聞いている。神よわれらを守りたまえ!」。この時代の他の情報源として、ダニエル・デフォーが1722年に出版した疫病の年がある。デフォーは当時たったの6歳であったが、家族の記憶(伯父は東ロンドンで馬具製造人、父はクリプルゲートで肉屋を経営していた)や生存者へのインタビュー、閲覧可能な公的記録に基づきこの作品を著した。
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