流行後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:52 UTC 版)
ロンドン大火も参照。1665年の晩秋になると、ロンドン市とその郊外の死亡者数は減少し始め、1666年2月になると、比較的安全と考えられるようになり国王とその廷臣がロンドン市に帰還した。国王が帰還すると、他の市民も帰還し始めた。判事はウィンザーからウェストミンスター・ホールに戻った。議会は1665年4月に延期されていたが、再開されたのは1666年9月だった。交易は推奨され、店舗や工房は活動を始めた。ロンドンはひと財産作ろうともくろむ人たちの波の終着点であった。1666年3月の終わり、大法官であるクラレンドン伯爵は以下のように述べている。「通りは混雑し、証券取引所は込み合っている。いまだかつてないほど、どこも人であふれかえっている…」. 疫病は1666年半ばまで、ほどほどの発生率で散発的に発生した。9月になるとロンドン大火でロンドン市の大半は破壊され、火災が疫病を終わらせると信じる人々も一部にいた。現代では、大火が起こる以前から疫病はほぼ終息していたものと考えられている。流行後期の症例はほとんどが郊外での症例であり、 ロンドン市は大火で破壊されたからである。 死亡表によれば、1665年のロンドンでの疫病死は68596人である。クラレンドン伯爵は真の死亡率は少なくとも2倍は多いと推測している。1666年にはほかの年でもより小規模であるが疫病死が発生した。公爵ともどもロンドン市内にとどまった、アルベマール公爵付きの牧師であるトーマス・ギャンブルは、1665年から1666年にかけての全死亡者は約20万人と見積もっている。 1665年~1666年のこの大疫病は、イギリス国内では最後の大流行であった。1679年の疫病死を最後に、1703年になると死亡表からこの分類は取り除かれた。イースト・アングリアやイングランドの南東部の他の町にも広がったが、平均死亡率より高い死亡率となった外教区は全体の10%以下だった。地方と比べ、都市はより影響を受けやすかった。ノーウィッチ、イプスウィッチ、コルチェスター、サウザンプトン、ウィンチェスターは特に影響を受けた一方、イングランド西部や中央部は全く影響を受けなかった。 イングランドの人口は1650年には約525万人だったが、1680年には490万人に減少し、1700年に500万人まで回復した。天然痘などの他の疾患は、疫病と関係なく人口に多くの死亡をもたらした。都市部では一般的にも死亡率が高く、疫病の死亡率も同様の傾向であったが、その原因は大小の町村や郊外の町から移民が持続的に流入してくるためであった。 ロンドンの人口について同時代の人口調査は存在しないが、現在利用可能な記録では数年以内に以前の人口水準に回復したことが示唆されている。1667年の埋葬者は1663年と同水準になり、暖炉税による収入も回復していた。ジョン・グラントが当時洗礼記録を分析し、人口の回復が見られると結論づけた。この人口回復の原因の一つは必需品を供給し、失われた家財を回復するのに必要な富裕層や商人、手工業者が都市に戻ってきたためである。コルチェスターでの人口喪失はもっと深刻だったが、布の生産量の記録には1669年までには回復もしくは以前より増加したことが記録されており、1674年には大流行以前の人口近くまで回復した。他の町の回復はこれほどではなかった。イプスウィッチはコルチェスターよりも疫病の影響は小さかったが、人口は18%減少し、疫病による死者よりも多かった。[疑問点 – ノート] 死亡率でいえば、ロンドンの死亡者数は他の町よりも比率として小さかった。ロンドンの死亡者数は直近100年の流行中でも最大だったが、人口比でいえば、1563年、1603年、1625年と同等かそれ以上にすぎなかった。イングランド全体の2.5%が疫病の犠牲になったと考えられている。
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