歴史と主な出展作品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 08:38 UTC 版)
「読売アンデパンダン展」の記事における「歴史と主な出展作品」の解説
1949年(第1回展)「日本アンデパンダン展」の名称でスタート。 1951年(第3回展)フランスとアメリカからの出品があり、ジャクソン・ポロックなどが紹介される。 1954年(第6回展)池田龍雄が『網元』を出展。内灘闘争をテーマにしたもので、この作品が安部公房に激賞されたことによって、池田は画壇で認められる。 1957年(第9回展)1957年に開催された朝日新聞社主催の展覧会「世界・今日の美術」展によって、フランスの抽象絵画の潮流「アンフォルメル」が紹介され、日本の美術界に「アンフォルメル旋風」が起きる。読売アンデパンダン展はこの影響を如実に受け、1957年(第9回展)から1958年(第10回展)にかけて出展者が急増。 九州を中心に活動する「九州派」のオチ・オサム、桜井孝身、菊畑茂久馬、田部光子らが初出品。 1958年(第10回展)九州派による共同作品「ゴミ作品」(九州派の面々らが出展作品を荷造りした後に残ったゴミをまとめて、菊畑茂久馬が小便をかけて、ついでに出品した物)が出展を拒否される。これが読売アンデパンダン展における出展拒否第1号である。 篠原有司男が『地上最大の自画像』を出品。後に篠原の代名詞ともなるボクシング・ペインティングによる作品で、瀧口修造は「青春」と評した。 1960年(第12回展)工藤哲巳(グループ鋭)の作品『X型基本体に於ける増殖性連鎖反応』に対して、評論家の東野芳明は「ガラクタの反芸術」と評した。 篠原有司男の作品『こうなったらやけくそだ』(当初出品予定だった巨大な竹の彫刻が壊れたため、しょうがないのでそれに火をつけて針金で縛って出品した物)に対し、瀧口修造は「廃棄異物」と評し、「アンデパンダンはこれを避けて通ることは出来ない」と言った。 第12回展の開催初日、篠原有司男や赤瀬川原平らが「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成を宣言。 1961年(第13回展)吉岡康弘による女性器を接写した作品が出展される。接写しているために当初は何を撮影したのか分からず、出品を許可されたが、展示中に女性器だとばれ、「ワイセツ」との理由で開催4日目に撤去。 1962年(第14回展)刀根康尚(グループ音楽)が自作の音楽を出展するべくテープレコーダーを持ち込んだところ、「音楽は出展できない」として出展を拒否される。そのため翌日、テープレコーダーに色を塗って作品『テープレコーダー』として再度出品し、今度は出展が許可される。 工藤哲巳が『インポ哲学―インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生』を出展。出展料さえ払えばいくらでも会場を利用できるルールを利用し、1万円くらい(当時としては大金)払って東京都美術館の1部屋を借り切り、壁に男根を模したオブジェやコッペパンを設置し、床に精液を模したうどんをばらまいた。うどんは開催当日の朝に工藤の夫人がうどん屋から買って来たものだが、会期中に腐るため東京都美術館から撤去要請があり、後に白いひもで置き換えられた。ちなみに現在ウォーカー・アート・センターに所蔵されている同作品も同様にうどんではなくひもとなっている。 中沢潮(時間派)の「白布の下にビニール袋に入った絵具を置き、観客がその上を歩くとビニールが破れて白布が染まる」という趣旨の作品が、都美術館の床を汚す危険性から展示直後に撤去される。 風倉匠が「 フーコーの振り子」を利用した作品を出展しようとしたが、振り子を東京都美術館の天井から直接吊り下げることを美術館に拒否された。 1963年(第15回展)赤瀬川原平が『復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)』を出展。数か月かけて千円札を精密に模写した作品で、赤瀬川は後に通貨模造の罪で起訴された(千円札裁判)。当時の作品は破棄されたものも多いが、この作品は裁判の証拠として検察庁に押収されたため、結果として一連の作品が破棄されずに現存している。 高松次郎が『カーテンに関する反実在性について』を出展。展示室に設置したテーブルからひもを長く伸ばすというコンセプトだったが、ひもは短かったので展示室の入口までしか伸びなかった。そのため翌日、中西夏之が長いひもを持ってきて、東京都美術館から上野駅までを繋げた(この瞬間、読売アンデパンダン展から延ばされたひもが鉄道を通じて全国につながった)。テーブルに結んだひもは読売の係の人に一度外されてしまったが、読売の係の人がフルチンで逆立ちをしている風倉匠に対処している間に再び作業を完了。その翌日、ひもでけが人が出て東京都美術館に警察が来る事態となり、たまたまその場に居合わせた篠原有司男がひもを回収して捨てた。 風倉匠が『事物は何処から来て何処へ行く』を出展。「事物」とは「彼自身の行為(事)と肉体(物)」のことで、自分自身の「事物」を出展作品として、袋に入った小杉武久(グループ音楽)の演奏に合わせて下半身裸(上はセーター)で館内を動き回って舞踏を行なったため、読売の係の人に制止される。袋の中で笛を吹いていた小杉武久も制止され、袋から出て事務室に連れていかれる。 加藤好弘(名古屋を拠点にするゼロ次元のメンバー)が「ある入滅式マンダラ」として、布団に集団で横たわるパフォーマンスを行う(要するに布団で寝ている)自分たちを出品した。 赤瀬川原平らが美術館のロビーでままごとセットを使って「ミニチュア・レストラン」を開く。中西夏之らがその辺の客に呼び込みをして、本当のレストランだと勘違いして食券を買ったお客さんもいたとのこと。ウズラの卵やワカサギなどを、たばこ用のライターで調理して、ままごと用の食器に入れて提供した。 1964年1964年3月に第16回展が開催予定だったが、1月に読売新聞社企画部長名義の通達が着て、開催直前で開催中止となる。 1964年6月、評論家の針生一郎、池田龍雄、瀧口修造らの呼びかけで、既に出展予定作品を用意していた作家たちが自主的に「アンデパンダン'64」を東京都美術館で開催。 1965年岐阜県で「長良川アンデパンダン」が開催される。読売アンデパンダン展の終了後、反芸術の運動は地方へと波及していく。
※この「歴史と主な出展作品」の解説は、「読売アンデパンダン展」の解説の一部です。
「歴史と主な出展作品」を含む「読売アンデパンダン展」の記事については、「読売アンデパンダン展」の概要を参照ください。
- 歴史と主な出展作品のページへのリンク