歴史と人形のいわく
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 15:24 UTC 版)
メリイなどの呪いの人形が誕生した経緯は謎に包まれているが、小説版「死印」で真下が八敷に渡した、謎の古い文献などで断片的に語られている。(真下いわく、「外には出回ってない代物」) 平安期、天慶の時代に戦で討ち死にして晒し首にされていた、ある武将の首が突如覚醒し、東方の武蔵国豊嶋郡、つまり現在の東京都心まで飛来し、その地を祟ったとされている。しかし一節によると、首は実際伝えられている地に辿り着く前に落ちたと言われており、現在の東京の西方、武蔵国多摩郡のK村だったとある。首が飛来した当時、K村は大いに祟られ、村を中心に疫病が流行ったり、度々怨霊が出没するなど、様々な禍が起こっていた。数百年の中で、祟りは鎮まるどころか更に大きくなっていき、ついには死者達が百鬼夜行の如く大行進を始め、その脅威は東方まで脅かそうとしていた。 室町期、当時の幕府や霊能者は、鎮圧に難航していたこの事態を重く受け止め様々な対処をしたが、それでも事態の収集には至らない状況が続いた。その様な状況の中、類まれなる神性を有した一人の少女が現れた。少女の名前は記録に残されていないが、西洋から流れついたその少女は、金色の髪と青い瞳を持つ、美しい容姿の子だったという。 幕府と霊能者たちは、この少女を生贄にする事を決め、これを実行した。生贄の儀式は成功し、武蔵国を襲っていたほとんどの怪事を鎮める事に成功した。 しかし、それから半世紀ほど流れた頃、人々の体に奇妙な痣が出現し、原因不明の急死を遂げるという怪事件が、K村を中心に起こった。人々は、これらの怪事を祟りの再燃として恐れ、神性のある者を探し出しては攫い、再び人身御供として祟りを鎮めた。こうして、非道な人身御供が時代をまたいで繰り返されるようになる。 だが、時が近代に近づくと、やがてそれは別の形へと変わり、霊力を込めた精巧な生き人形を作って、それを生贄の代わりとするという風習になっていった。中でも、西洋の工房で作られた初代の人身御供を模した人形は、祟りをその身に封じる事ができるほどの力を持つ存在として、他の人形とは一線を画す扱いがなされていた。 これらが、呪いの人形の始まりではないかということだった。 そして大正時代、好事家だった当時の「九条家」当主が、メリイらしき人形を手に入れた。 こうした人形たちは、儀式を司る家々の当主のみに代々伝えられていったが、先の大戦にて、これらの事実を知るものが戦死してしまったり、伝えを記した書物が焼失したため、人形にまつわるいわくや仕来りはそのほとんどが失われ、人形の存在だけがただ残された。 そして、199X年。かつてはK村、現在はH市と呼ばれる地のとある名家の館で、美しい西洋人形が目覚める。 「死印 青き終焉」では、「メリイのような人形、つまり生贄の代わりとなる人形は、かつて生贄となった人間を模しており、人形にはその人間の魂が再び呪縛される。人形はかつての生贄の成れの果て。」という様な趣旨の言及がされている。(しかし、人形がかつての生贄を模していることは本編の設定にも存在するものの、その他の設定が本編にも存在するかは不明。)
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