欠番までの経緯
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1967年12月17日、『ウルトラセブン』第12話の初回本放送が行われた。 1968年4月、講談社より出版された週刊少年マガジン19号(5月5日号)に「吸血宇宙人」の別名がついたスペル星人が掲載された。 1968年5月30日、秋田書店より出版されたフリーライター大伴昌司の代表作『写真で見る世界シリーズ カラー版 怪獣ウルトラ図鑑』の初版に、「被爆星人」の別名がついたスペル星人が掲載された。 1970年3月3日の『週刊ぼくらマガジン』の付録「世界の怪獣王円谷英二」に、「ウルトラ」Q、マン、セブンの怪獣名が列挙されているがスペル星人だけがない。 1970年4月、講談社より出版された『たのしい幼稚園』5月号に「きゅうけつかいじゅう」の別名がついたスペル星人が掲載された。 1970年7月10日、黒崎出版より出版された『ウルトラ怪獣写真えほん オールカラー版』の初版に、「きゅうけつかいじゅう」の別名がついたスペル星人が掲載された。その後、同年12月20日に出版された第6版以降の該当箇所はギャンゴの写真に差し替えられている。 「吸血宇宙人」「きゅうけつかいじゅう」「被爆星人」、別名をつけずスペル星人の名前のみ記載など、最初から一貫した別名の表記はなかった。 本放送時後に何度も行われた再放送時でも、問題視する反響はなかった。 1970年夏、『ウルトラセブン』のプロデューサー末安昌美の実弟で当時円谷プロの営業を担当していた末安正博は、親交のあった竹内博(当時は中学3年)に詳しい設定資料を作ってほしいと依頼した。竹内は、大伴が担当した怪獣図鑑の文献や『週刊少年マガジン』『ぼくら』などの雑誌記事をまとめた資料集を作成した。この資料上では、スペル星人の別名は「被爆星人」となっていたが、円谷公認の設定案として採用され、各出版社に配布された。 1970年10月1日、小学館より出版された『小学二年生』11月号のふろく「かいじゅうけっせんカード」に「ひばくせい人」の別名がついたスペル星人が掲載された。 1970年10月4日、前述のカードを見た女子中学生が、フリージャーナリストにして東京都原爆被害者団体協議会の専門委員でもあった父・中島龍興(筆名・中島竜美)に相談し、カードに記載された「ひばく」の文言を問題視した中島は『小学二年生』の編集長に抗議の手紙を送った。中島がこの件を所属していた市民サークル「原爆文献を読む会」のメンバーに話したところ、メンバーは知り合いの朝日新聞の記者にこの問題を伝えた。 1970年10月10日、朝日新聞に『被爆者の怪獣マンガ』『「残酷」と中学生が指摘』などの見出しとともに「実際に被爆した人たちがからだにケロイドをもっているからといって、怪獣扱いされたのではたまらないと思った」との中島の長女の感想や、「現実に生存している被爆者をどう考えているのか、子供たちの質問にどう答えるのか」との中島の抗議文と「同社(小学館)からの返事はまだない」などの記事が、小学館・円谷プロ両社からの正式なコメントがない中で掲載された。 この後、中島は小学館を訪れ、当時『小学二年生』の編集長だった井川浩を相手に「机をバンバンたたく激しい抗議」を行なったとされるが、中島は後のインタビューで「当時 被爆者の差別が多くなっていた」と抗議の背景に触れたうえで「相当頭にきたんでしょうね。(中略)カードしか見てないのに、抗議というわけですから」「僕の抗議は著作権の問題でいうと2次使用を問題にしたということ。でもそれが広がってしまって、放送そのものへの抗議に発展しちゃったんです。はずみがついて運動が盛り上がってしまった」「カードがなければ抗議はしなかったと思う 放送したTBSに抗議はしていない」「番組を見ずに抗議したのは大きな問題だった」「記事は少しオーバーと思ったが、直接抗議に行った」「私の投書が結果的に第12話を封印させてしまった 表現の自由を潰してしまったという思いがある 簡単に存在をなくすことは怖いことだ」などのコメントを残している。 抗議を受けた井川は、後年のインタビューで出版元として「被害者への配慮が足りなかったと思い、紙面で謝罪した」「被害者を怪獣扱いしたつもりはないので、被害者を怪獣扱いしたと報じた新聞にはこちらも抗議し、20紙以上が報道を詫びたが、朝日新聞は一切対応しなかった」などのコメントを残している。 抗議を受けて竹内が作成した設定資料の「被爆星人」の別名が黒く塗りつぶされ、「吸血星人」に差し替えられた。 当時の円谷プロの状況を振り返り、竹内は「社長にまで及んだ抗議に社員は戸惑っていた 上司に頼まれ私はハサミでスペル星人の円盤のスチールネガを切った」、円谷プロで元特殊技術スタッフだった熊谷健は「被爆者を差別するといった気持ちはなかった。しかしケロイドにクレームがつき弁解できず」などのコメントを残している。 カードに記載された別名の引用元となった『怪獣ウルトラ図鑑』の著者である大伴昌司は、円谷プロから「(スペル星人の)設定や特徴は、大伴が作ったんじゃないか、けしからん」と叱られ、一時ノイローゼになったらしいと当時出版社の人間から聞いたとの竹内博のコメントが残されている。第12話の封印後、大伴は竹内に対して一度もスペル星人について語ることはなかったという。 1970年10月21日、朝日新聞の記事を皮切りに全国に拡大した抗議活動により、『小学二年生』11月号だけでなく、カードと同様に「被爆星人」と記載のあった既刊の『怪獣ウルトラ図鑑』などにも矛先を向けられた円谷プロは、発行元としての配慮不足について謝罪した。被害者を怪獣扱いしたとの報道については、「原水爆を否定する気持ちと全く変らない態度で製作したものであります」「従いまして、一部の新聞が報じましたような被爆者を怪獣扱いしたとか、モデルにしたなど、そのような考えで製作したものでは毛頭ありません」と否定し、「今後一切、スペル星人に関する資料の提供を差し控える」と約束した。再放送中の第12話の放送も急遽中止したことにより、抗議は一旦収束した。 しかしその半年後、本編の二次使用作品である『ウルトラファイト』の再放送にスペル星人が再登場したことから、円谷側は再び謝罪に追い込まれ、解決策として第12話の作品自体を封印することを決めた、とされる。 封印については長らく制作関係者や出演者に対しても伝えられることはなく、後のインタビューで佐々木守は「知ったのはずっと後。原爆実験はいけないということを子供たちにわかってほしいと思い書いたが、封印されて問題が大きくなり困った」、友里アンヌ役のひし美ゆり子は「封印したことを知らされなかった」、中島は「(インタビュアーの何が問題だったのかわからないという発言に対して)それが一番の問題、私はウルトラセブンの愛好者から加害者第一号として叫弾された 不明瞭な形で封印されたからそのようなリアクションが出る」など、封印の経緯説明の不足を指摘するコメントが残っている。
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