機械力の導入
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「笹子トンネル (中央本線)」の記事における「機械力の導入」の解説
笹子トンネルの工事では、古川阪次郎の指揮により次々に新技術が導入されたことも特徴となっている。 まず削岩機を西口で1897年(明治30年)9月12日から、東口では10月30日から運転を開始した。削岩機は北陸本線柳ヶ瀬トンネル(1,352 m)の工事で初めて日本に導入されたもので、この時点では前例はあまり多くなかったが、中央東線全体の開通時期を左右する重要な工事であり特に硬い岩では手作業より効率に優れるのは明白であったため導入が決定された。当初は作業員が不慣れで手間取ることもあったが、熟練するにつれて改善され効率向上に大きな力を発揮した。 この削岩機は、坑外に設置した蒸気機関により空気圧縮機を運転し、圧縮空気を鉄管で坑内に送ってその圧力により動作する仕組みになっていた。長いトンネルでは換気の問題が常に生じ、特に坑口付近に切土区間があって換気条件が悪い東口においては唐箕を用いて送風を試みるほどであったが、この圧縮空気で動作する削岩機は使用後の空気がそのまま坑内に排出されるため換気の効果も期待された。このため1898年(明治31年)の予算縮減で経費不足により削岩機の使用を一時中断した際にも、送風のみは続行した。設置されたボイラーは東西とも伝熱面積160平方フィート(約14.9平方メートル)、圧力80psi(約550 kPa、約5.5気圧)の公称16馬力のもので、さらに1900年(明治33年)8月に小仏トンネルで使用されていた同一仕様のボイラーが東口に増設されて2台となった。また西口では電力を利用して1900年(明治33年)9月からウェスティングハウス・エレクトリック製の直流100 V40馬力電動機を運転して空気圧縮機を駆動するようになり、従来の蒸気機関を廃止して、良好な結果を得た。削岩機は当初切り広げでの使用も行ったが、もっとも掘削が困難で全体の進行に影響を与えるのは導坑掘削であったため、最終的にすべて導坑掘削のみに削岩機を投入した。当初は東西それぞれ3台ずつ使用したが常時2台を使用している状況で不足が感じられたため、輸入品を基に国内で7台を模造し、さらに1台を別途導入して、結局東西7台ずつ合計14台で運用した。 通信手段も用意され、1897年(明治30年)10月には八王子-黒野田-初鹿野-勝沼を結んで電信が開通して、以後資材の輸送計画などに用いられた。また1899年(明治32年)になり電力が得られるようになると、発電所・工事事務所・坑内の大マンホールを結んで電話が設置された。これにより、それまで工事計画や材料の輸送などの伝達は徒歩で往復2時間もかかかっていたが、電話の開通によってその時間はかからなくなり、大幅に作業効率が改善された。 坑内では、当初カンテラが照明に用いられており、カンテラが出す一酸化炭素等の有害物質によって空気が汚染されていた。これに、作業員の呼気に含まれる二酸化炭素が加わり、人数が増加すると坑内の空気はますます汚染されて作業効率が極めて悪く、作業員の体調をも害するようになっていた。その後、削岩機の運転に伴って換気を行うようになり、坑内環境はやや改善されたが、さらなる改善のためにカンテラを廃して電灯を点灯することになった。日本でトンネル工事に電灯を利用したのも笹子トンネルが初めてであり、これによって坑内環境・作業効率ともに大幅な改善が見られたという。 東口では1899年(明治32年)6月に電灯設備を起工し11月から使用を開始した。坑口の200間(約364 m)上流の笹子川に堰堤と水門を設置して取水し、173間(約315 m)の水路を流れて鉄管に入り水車を駆動する水力発電所を設置した。水車はジョンスバートン製の横軸ダブルディスチャージヴォルテックスタービンで20馬力、落差32フィート(約9.8 m)、毎分235回転のもので、発電機は三吉商会製125 V・120 A・15 kWの直流発電機であった。これでさらに不足してくると小仏トンネルで使用していた発電機が移設され、1901年(明治34年)6月14日に運転開始した。こちらも水車はジョンスバートン製横軸ダブルディスチャージヴォルテックスタービンで15馬力、落差32フィート、毎分185回転で、発電機は石川島造船所製125 V・60 Aの直流発電機であった。最終的に坑内と坑外を合わせて276個の電灯を点灯した。 西口では1899年(明治32年)10月に起工し1900年(明治33年)6月23日から電灯の使用を開始した。坑口から20チェーン(約400 m)上流の日川に堰堤を設置して取水し12チェーン50リンク(約250 m)の水路を導水した。水車はジェームスレッフェル製横軸シングルディスチャージタービンで68馬力、落差50フィート(約15 m)、毎分557回転のもので、発電機はウェスティングハウス・エレクトリック製125 V・450 A・56.25 kWのものを設置した。これにより最大で273個の電灯を点灯した。これらの電灯の設備により空気の汚染を軽減しただけではなく、明るい光量を得て作業能率を大いに改善する効果があった。 また、掘削した岩石のずりを運びだし、必要とされる資材を坑内へ運び込む作業も重要であった。ずりに関しては、トンネル坑口の外における路線の盛土用に多くを転用したが、最大で1マイル(約1.6 km)以上も先まで土砂を捨てに行く必要があり、坑内から合わせると最大3マイル(約4.8 km)もの運搬距離となった。これは線路を敷設してトロッコでの運搬を行い、1ヤード当たり20ポンド(約10 kg/m)のレールを用い坑内上段では軌間2フィート(約609 mm)、下段では3フィート(約914 mm)とした。当初は人力で運搬していたが、東口では1900年(明治33年)2月から水力発電所の電力を利用して電気機関車の運転を開始した。また西口では1898年(明治31年)7月に馬力が導入され、さらに1901年(明治34年)1月に牛力に変更された。牛馬の力は電気機関車には劣ったが、人力よりははるかに優れていたという。 笹子トンネル東口で運転された電気機関車は、国鉄の記述した資料などでは日本初であるとするものがあるが、実際には足尾銅山などで使用の先例があると指摘されている。導入に当たっては軌間を30インチ(762 mm)に変更している。また電力は別途発電所を建設しており、やはり笹子川の上流から導水し、水車はジェームスレッフェル製横軸ダブルディスチャージタービン46.5馬力、落差80フィート(約24 m)、毎分900回転のものを、発電機はゼネラル・エレクトリック製550 V・90 A・45 kWのものを設置した。これを架空式の電車線に送電し、電気機関車はボールドウィン・ロコモティブ・ワークスおよびウェスティングハウス・エレクトリック製の2軸12トン15馬力の鉱山用機関車を導入した。また貨車はアルトゥル・コッペル製のものであった。 電気鉄道導入の効果は大きく、坑内の空気を汚染しないばかりか、それまでずりが坑内に溜まりがちで工事に支障を来すことがあったのが一掃され、逆に運ぶものが無いと掘削を催促されるほどであった。材料の運搬にも便利で不要な資材を坑内に保管する必要が無くなり、現場の整理整頓が進んだ。また作業員の入退出においても便乗することができたため、労力の軽減につながった。
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