松平家時代
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寛永15年(1638年)、結城秀康の三男・松平直政が18万6000石で信濃松本藩より転封した。以後、出雲一国は越前松平家の領するところとなった。また松平家は公儀御料となった隠岐1万4000石も預かることになった。 藩の財政は年貢米による収入のみでは立ち行かず、入封当初より苦しかった。このため早くから専売制を敷き、木蝋、朝鮮人参、木綿、そして鉄の生産を統制した。特にこの地は古くから、たたら製鉄やたたら吹きによって砂鉄から鉄を生産することが盛んだった。享保11年(1726年)5代・宣維は田部(たなぶ)・桜井・絲原(いとはら)の大山林地主3家を中心に組合による独占制度での製鉄をおこなった。 不昧(ふまい)と号した7代・松平治郷は特に有名な藩主である。先代・宗衍の代より藩政改革に着手していた家老・朝日丹波を引き続き起用して財政再建を推進した結果、寛政年間(1789年 - 1801年)には8万両もの蓄財が出来るまでになった。治郷は藩財政の好転を期に、かねてからの趣味であった茶道に傾倒して不昧流を創設した。名器の蒐集も行っているが、その目録である『雲州蔵帳』や、著書『古今名物類聚』、そして『瀬戸陶器濫觴』上中下巻は茶道研究の重要な資料の一つとなっている。また茶道との絡みで、松江の町はこの頃より京都・奈良・金沢と並び和菓子の一大名所となった。茶や和菓子のみに留まらず、松江および出雲地方では今日でも、治郷が好んだ庭園や工芸品などが「不昧公好み」と呼ばれる一つの銘柄と化しているほどである。しかしその反面、晩年に至っては膨大な散財から再び藩財政を傾けることとなった。 幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずだったために、新政府の不信を買った。結局は新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備についた。同年、隠岐を治めていた松江藩の代官が島民の蜂起により放逐されるという隠岐騒動が起こった。江戸時代中期から頻繁に起こっていた隠岐での飢饉への対処不足、外国船の来航・上陸に対する無為無策ぶりなどに対する島民の不満が爆発したのである。代官放逐後、隠岐では自治政府が成立、一旦は松江藩に奪い返されたものの、鳥取藩と新政府の介入により再び自治政府が開かれ、以後は鳥取藩の預かりとなった。明治2年2月25日(1869年4月6日)には廃藩置県よりも2年早く隠岐県が誕生している。 松江藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により松江県となり、その後島根県に編入された。松平家は明治2年の版籍奉還とともに華族に列し、明治17年(1884年)の華族令で伯爵に叙爵されている。 支藩としては、広瀬藩と母里藩、また一時存在した松江新田藩がある。
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松平家時代
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天和2年(1682年)、越前国大野藩より松平直明が6万石にて入封し、越前松平家の支配が廃藩置県まで続いた。8代・斉宣は11代将軍・家斉の二十五男で、この時2万石の加増を受け、8万石(10万石格)となった。 しかし、将軍家の子息を迎えることで莫大な費用を要し、財政難に一層の拍車がかかった。幕末には御家門の立場上佐幕派となり、鳥羽・伏見の戦いでも幕府方として参戦した。その後、明治政府方に帰順した。明治4年(1871年)、廃藩置県により明石県となり、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入されている。越前松平家は明治17年(1884年)、華族令により子爵となった。
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