形原松平家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 17:01 UTC 版)
代わって摂津高槻藩3万6,000石より形原松平康信が5万石で入る。康信は、4年にわたる検地を実施して郷村制度を確立し、さらに在地勢力である土豪を一掃した。康信の後は松平典信、松平信利と続いたが、前者は在職3年、後者は在職4年という短命な藩主であった。 第4代藩主・松平信庸(康信の孫)は聡明といわれる藩主で、2代・3代と若死にしていたために混乱していた藩政を再建した。また、松崎蘭谷や万尾時春らを招聘して文化の興隆に努め、篠山藩の全盛期を確立した。幕政においても京都所司代、老中などを歴任した。 しかし、その後を継いだ第5代藩主・松平信岑は暗愚といわれ、折りしも享保の大飢饉と重なって米価が昂騰し、強訴が発生したにも関わらず、苛酷な重税を強いたため、藩内では百姓一揆が相次いだ。遂には延享4年(1747年)に百姓から中傷されたことが発端となり、翌年の寛延元年(1748年)8月3日、丹波亀山藩へ移封となった。
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