日本占領方針
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「ダグラス・マッカーサー」の記事における「日本占領方針」の解説
マッカーサーには大統領ハリー・S・トルーマンから、日本においてはほぼ全権に近い全権が与えられていた。連合国最高司令官政治顧問団特別補佐役としてマッカーサーを補佐していたウィリアム・ジョセフ・シーボルドは「物凄い権力だった。アメリカ史上、一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られた例はなかった」と評した。9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。 これに対して重光葵外相は、マッカーサーに「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本も参照)。 降伏調印式から6日経過した9月8日に、マッカーサーは幕僚を連れてホテルニューグランドを出発して東京に進駐した。東京への進駐式典は開戦以来4年近く閉鎖されていた駐日アメリカ合衆国大使館で開催された。軍楽隊が国歌を奏でるなか、真珠湾攻撃時にワシントンのアメリカ合衆国議会議事堂に掲げられていた星条旗をわざわざアメリカ本国から持ち込み、大使館のポールに掲げるという儀式が執り行われた。 その後、マッカーサーと幕僚は帝国ホテルで昼食会に出席したが、マッカーサーは昼食会の前に、帝国ホテルの犬丸徹三社長が運転する車で都内を案内させている。車が皇居前の第一生命館の前に差し掛かると、マッカーサーは犬丸に「あれはなんだ?」と聞いた。犬丸が「第一生命館です」と答えると、マッカーサーは「そうか」とだけ答えた。昼食会が終わった13時にマッカーサーは幕僚を連れて第一生命館を再度訪れ、入り口から一歩建物内に踏み入れると「これはいい」と言って、第一生命館を自分の司令部とすることに決めている。犬丸は自分とマッカーサーのやり取りが、第一生命館が連合国軍最高司令官総司令部となるきっかけになったと思い込んでいたが、マッカーサーは進駐直後から、連合国軍最高司令官総司令部とする建物を探しており、戦災による破壊を逃れた第一生命館と明治生命館がその候補として選ばれ、9月5日から前日まで、両館にはマッカーサーの幕僚らが何度も訪れて、資料を受け取ったり、第一生命保険矢野一郎常務ら社員から説明を受けるなどの準備をしていた。副官のサザーランドが実見し最終決定する予定であったが、犬丸に案内されて興味を持ったマッカーサーが自ら足を運び、矢野の案内で内部も確認して即決したのであった。もう一つの候補となった明治生命館へは「もういい」といって見に行くこともしなかったが、結局、明治生命館も接収されてアメリカ極東空軍司令部として使用された。 第一生命館は、皇居を見下ろす地上8階建てのビルであり、天皇の上に君臨して日本を支配するマッカーサー総司令官の地位をよく現わしていた。しかし、マッカーサーが執務室として選んだ部屋はさほど広くもなく、位置的に皇居を眺めることもできず、階下は食堂であり騒がしい音が響いていた。マッカーサーの幕僚らの方が広くて眺めもいい快適な部屋を使用していたが、マッカーサーがわざわざ部下より質素な執務室としようと考えたのは、強大な権力を有しているが、それを脱ぎ捨てれば飾り気のない武骨な軍人であるということを示そうという意図があったためである。しかし、実際にはマッカーサーの幕僚らにより第一生命には「一番よい部屋を」という要望がなされ、マッカーサーの執務室として準備されたのは第一生命の社長室で、壁はすべてアメリカ産のくるみの木、床はナラ・カシ・桜・コクタンなどの寄木細工でできたテューダー朝風の非常に凝った造りとなっており、第一生命館最高の部屋であった。 占領行政について既存の体制の維持となると避けて通れないのが、天皇制の存置と昭和天皇の戦争責任問題であるが、早くも終戦1年6か月前の1944年2月18日の国務省の文書『天皇制』で「天皇制に対する最終決定には連合国の意見の一致が必要である」としながらも「日本世論は圧倒的に天皇制廃止に反対である……強権をもって天皇制を廃止し天皇を退位させても、占領政策への効果は疑わしい」と天皇制維持の方向での意見を出している。また1945年に入ると、日本の占領政策を協議する国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)において「占領目的に役立つ限り天皇を利用するのが好ましい」「天皇が退位しても明らかな証拠が出ない限りは戦犯裁判にかけるべきではない」という基本認識の元で協議が重ねられ、戦争の完全終結と平穏な日本統治のためには、天皇の威信と天皇に対する国民の親愛の情が不可欠との知日派の国務長官代理ジョセフ・グルーらの進言もあり、当面は天皇制は維持して昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった。これはマッカーサーも同意見であったが、ほかの連合国や対日強硬派やアメリカの多くの国民が天皇の戦争責任追及を求めていたため、連合国全体の方針として決定するまでには紆余曲折があった。 国際政治学者の細谷雄一・慶應義塾大学教授は、全権によって日本人に「対米従属」という認識を植え付けられたのではないか、と指摘している。
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