日中の駆け引きと反対運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/26 07:31 UTC 版)
「天図軽便鉄路」の記事における「日中の駆け引きと反対運動」の解説
そこに1919年12月、吉林省長官より計画停止が命令され、翌年6月8日には未着工のままの鉄道を接収するとの通達が出された。 この事件には日本政府の間島政策が深く関与している。「間島協約」により日本側は吉会鉄路の権益を入手したが、それに対する反対が相次ぎ1919年には北京で反対暴動が発生するなど鉄道建設に着手できない状況が続いていた。そこで計画線上に日本人が主導して計画された天図軽便鉄路が吉会鉄道が敷設できない場合の保険として注目され、日本政府による融資を行うなどの支援策を実施していた。 この日本政府の方針に中華民国政府は反発、交通部長の曾毓雋は天図軽便鉄路は吉会鉄路と同一であると断言、会社設立時に必要時に接収するとした規定を利用し利権全体の回収を図ったのである。日本政府は交通部長の買収工作などを行ったが、中華民国による利権回収計画は交通部長の失脚によって失敗している。 日本側ではその後、吉会鉄路と天図軽便鉄路の建設優先順位で協議が行われた。1920年10月には馬賊による琿春の日本領事館襲撃に対抗して日本軍の間島出兵が行われたが、外務省はこれを理由として天図軽便鉄路敷設を推進、一方南満州鉄道は吉会鉄路建設交渉を推進、一方天図軽便鉄路の建設も推進され意見の集約化は困難を極めた。 日本政府は結局天図軽便鉄路と吉会鉄路の両案を平行して推進することを決定、天図軽便鉄路建設に関しては1921年7月、中華民国政府が着工許可を行わない場合は関係者の引揚げ及び損害賠償要求を行う内容の通達を行うと共に、各種政治工作により日本側の意向が反映されるかと思われた。 しかし吉林省政府は省内に駐屯する軍責任者が反対し、また地元民による反対運動も発生していると計画実行に難色を示した。これに対抗すべく1921年8月18日に交通部長との間で協約を締結、着工を推進し既成事実化することで吉林省政府の事後承認を獲得する方針を定めた。 だが同年10月、吉林省の軍責任者・孫烈臣は吉会鉄路建設を優先し、天図軽便鉄路の消滅を公言、翌1922年1月には延吉の農会・商務会・教育会や学生による大規模な反対集会が開かれ、2月からは中国側の警官や軍人までもが妨害活動に参加するようになり、4月29日には吉林省自身も議会で反対決議を可決した。 4月30日、延吉の師範学校や高等小学校の生徒によるデモが発生、建設賛成派の家を打ち壊す事件が発生、また別の師範学校の教師たちが、徒歩で山越えをして龍井村までデモを行った。さらに5月1日には、これらの学生が人数を増やしてデモを行い、再び賛成派の家の打ち壊しを行った後、集会を開こうとした。この集会は政府が外交手段により押さえつけたものの、これ以降反対運動が過激化していくこととなった。 また測量が実施された時期が収穫期であったことから農民の反発を受け、測量用の杭が引き抜かれる事件も多発した。7月22日には、測量により農地を荒らされることに激怒した民衆2000人余りが日本との徹底闘争を唱えて延吉に集結、県長官との交渉を申し入れた。7月27日には反対運動は吉林に飛び火、2000人余りが集会を開き日本との徹底闘争が決議されている。 反対運動の激化により吉林省代理長官は8月6日に工事中止命令を出したが、天図軽便鉄路は8月10日に着工を強行。これに反発した地元警官が工事現場において作業者を威嚇する事件が発生、8月13日にも警官が銃で作業者を殴打し、更に銃口を向けるなどの妨害活動が頻発した。 一方龍井村近郊の東盛湧では、4月から反対運動を行っていた学生たちが8月12日に地主の参加を呼びかけ人数をさらに増やして集会を開き、8月16日にも同様の集会が地元及び近郷近在の住民によって行われるなど延吉では連日デモが行われるようになった。 工事現場での地元警官の工事妨害は激化し、9月5日には工事中止に応じなかった現場責任者を銃で殴打した上、作業者数十人を逮捕し、命令をきくよう脅迫。結局作業者たちは解放されたが、他の作業者が逃亡し工事が中止される事態となった。 次いで9月7日に東盛湧で住民が闘争を決議、武器や棍棒を携えて工事妨害や工事現場の杭を引き抜くという実力行使に出た。9月20日には延吉でも住民が闘争を決議、県政府への請願が行われるなど、天図軽便鉄路は建設工事再開の目途がたたない状況に置かれることとなった。 事態を重視した日本政府も吉林省側の態度を軟化させようと交渉を続けた。1922年11月8日に中国側に対し大幅に譲歩し、会社代表権・用地管理権・警察権を有す職位の任命権を中華民国側が保有すること、経理処理も中華民国の通貨を使用すること、実際に払い込みをせずとも中華民国に株主の資格を与えるとした条件を提示、翌1923年2月1日に天図軽便鉄路は吉林省との合弁会社に改編された。 日本側の大幅な譲歩により、4月22日には病死した中国人作業者の遺族が柩を工事現場に搬入して座り込みを行い、騒動に乗じたほかの中国人作業者が日本人監督を殴打する事件が発生、6月には間島地域の郵便局が抗議の意思表示として日本円での切手販売を禁止、更に日本人警察官には大量購入を拒否するなどの事件は発生したが、抗議運動はほぼ沈静化し工事は再開されることとなった。
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