撮影進行
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1953年5月27日、豪農家の門前で利吉と万造が言い争いをするシーンでクランクインした。撮影初旬の黒澤は体調が優れず、7月10日にサナダ虫で入院して2週間撮影中断した。9月までに伊豆でのロケーション、水車小屋や木賃宿の室内シーン、町のオープンセットでの侍探しや果し合いのシーンなどを撮影した。 裏山での勝四郎と志乃のラブシーンは、シナリオではスミレの花畑を想定していたが、季節的にスミレは咲いておらず、スタッフ全員で山の中で野菊の花を摘み、それを植えて花畑を再現した。このシーンは箱根長尾峠を越えた国道下の暗い森の中での撮影で、十分な光量を得られなかったため、スタッフが宿泊していた旅館の鏡を総動員し、国道から鏡を並べて太陽光をリレーのように鏡で反射させて現場まで持って行った。この方法は『羅生門』でも用いていた。しかし、志乃役の津島恵子は、鏡の反射による強い太陽光で直接眼にキャッチライトを入れられ、それ以来眼が弱くなったという。 当初は10月上旬の封切りでスケジュールが組まれ、撮影期間は90日、完成は9月17日を予定していたが、実際の撮影進行は大幅に遅れた。助監督の堀川弘通はその理由として、ひとつの村を別々の場所で撮影したこと、野外撮影中心のため天候に左右されやすかったこと、その上にこの年が異常気象だったこと、スタッフがスケールの大きい活劇に不慣れだったことを挙げている。9月に入ってもまだ全体の3分の1しか撮影しておらず、当初の予算も使い果たしていた。スタッフには「いつクランクアップするか」の賭けをする人もいた。東宝の重役会では「続行か、中止か」で揉めて撮影中断となり、その間黒澤は多摩川で鯉釣りをして過ごした。黒澤は千秋実に「資本家というのは、いったん出した金は必ず回収する。まあまあ釣りでもしてろ」と語ったという。結局、会社側は製作続行を決めて追加予算を出し、11月に撮影所前の村のオープンセットで撮影再開した。 それでも撮影は遅れ、しびれを切らした会社は今までの撮影分を編集して見せるように要求し、1954年1月に再び撮影中断した。黒澤は粗編集したフィルムを会社幹部の前で試写したが、そのフィルムは菊千代が屋根に旗印を立てて、「ウアー、来やがった、来やがった!」というシーンで終わっていた。クライマックスの決戦シーンは、豪雨でセットが滅茶苦茶になることが初めから分かっていたため、予定を後回しにしており、会社側に対して意図的にスケジュールを組んだわけではなかったが、このままでは完成させようがないため、撮影続行となった。 こうした撮影遅延により、6月頃の設定である豪雨の決戦シーンは真冬の2月に撮影した。1月24日の大雪でオープンセットには30センチの雪が積もり、スタッフは消防団や学生アルバイトを動員し、3日かけてホースで水を撒いて雪を溶かした。地面は膝までつかるほど泥でぬかるみ、そこに数台の消防ポンプで雨を降らせたため、撮影は極寒の過酷な状況下で行われた。3月19日に野武士の山塞を焼き討ちするシーンでクランクアップした。このシーンの撮影では、スタッフがセットにガソリンをかけ過ぎたため、本番で火を付けると想像以上に火勢が激しくなり、利吉役の土屋嘉男は山塞の中にいる女房に近づこうとするところでバックドラフト現象に遭遇し、顔面火ぶくれになった。
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撮影進行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 17:42 UTC 版)
スタート時から1億7000万円足りないという現実があり、撮影日数の問題もあったが、長谷川と山本は長い脚本を一切切らず全部撮ることにした。東宝とは2時間20分前後にするという契約のため、約1時間分は未使用となった。山本は「無駄の中に映画の魅力を拡げるものがある」という自身のプロデューサー判断と述べている。なお、最終的な制作費は3億9千万円、撮影期間は1979年4月25日より8月8日(撮影日数86日)、撮影使用フィルム17万フィート、19万フィート(約35時間分)となっている。これを1万3千フィートに編集。通常の日本映画の3~4倍のフィルムを使用した。 1979年4月25日クランクイン。トップスター沢田研二のスケジュールをここから7月まで、丸3ヵ月開けさせた。ナベプロからは「夏は絶対、歌の興行で全国を回りますから、7月で撮影を終えて下さい」と引導を渡された。この年の沢田の夏ツアーは、全国ツアー以外にもシンガポール公演を始め、外国人で初めての中国でのコンサートの予定があった。大半の撮影が規模が大きく撮り切れない部分が積み重なった。長谷川は何かを見切れるまで撮影を続けるため、毎日徹夜。予想通り7月で撮影は終わらず、沢田を一旦手放した。スケジュールがその段階でかなり混乱した。8月後半に沢田抜きで高速道路の車の走りなどを撮った。撮影遅延によりスタッフの契約期間は全員切れ、長谷川がイライラして怒鳴り散らしたりしたため、次の日から来なくなる者、次の現場に行く者も増えてきて、その間、スタッフ1人欠け、2人欠けで、沢田が現場に戻って来てくれたとき、助監督で残っていたのはチーフ助監の相米慎二だけになっていた。照明部も熊谷秀夫1人だけで、伊地智啓が弁当配りをやり、沢田のスケジュールは動かせないため、残った者で準備や撮影をやった。最後は米粒コツコツ拾う鶏みたいな現場になった。黒沢清は「撮影遅延が数週間なら珍しくないが、数ヵ月も遅れるというのは特殊な現場だった。その特殊な伝統が後に相米慎二さんに受け継がれていくんです」と話している。途中逃げだしたセカンド助監の榎戸耕は「『太陽を盗んだ男』だけは思い出したくない」と話していたという。このためノンクレジットの一番下っ端の製作進行でまだ学生だった黒沢清が助監督らを全部飛び越し、B班のプロデューサーになっていた。黒沢はプロデューサーということで数10万、数百万のお金を預けられ、僕が逃げたらどうするつもりなのかなと考えたという。黒沢がディレクターズ・カンパニーに参加したのはこれが切っ掛け。 1979年9月初めクランクアップ。
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