戦術的な機能と運用の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 00:01 UTC 版)
「ロレーヌ 37L」の記事における「戦術的な機能と運用の歴史」の解説
1939年、ロレーヌ 37Lは戦車師団の補給部隊に段階的に配備されていった。これは装甲師団の運用に関する戦術思想の変化と同時だった。1930年代初期、それまでのフランス軍の戦闘教義は、歩兵による浸透戦術への迎撃として、敵の攻撃をくじくために縦深的な防御ベルトの構築を好んでいた。これは彼らが全体規模の機動戦を構想できた以前のことであり、戦場でのフランス軍は仮想敵としてもっとも可能性のあったドイツ軍よりも精通していないことを痛いほど理解していた。敵は可能な限り自身を同様に防御する、ということが予期できたため、フランス歩兵部隊に置かれた装甲科は、どのようにして自身の待機陣地深くから同様な突破を行うかという厄介な問題に多くを傾注するようになった。また徒歩戦闘を行う歩兵との密接な協力が強調された。敵軍の包囲状態という次の段階に関しては、はるかに少ない注意しか払われなかった。 この状況は1930年代後半に変化した。最終的には相当数の最新かつ良好に装甲防御がなされた戦車を製造でき、もし、諸兵科連合戦術において、十分な砲兵と航空支援が実施されたならば、歩兵部隊は敵の前線を突破する能力に自信を持つことができた。同時に政治情勢から、ドイツを屈従させるには大規模攻勢が必要であると思われるようになった。少数の士官は、戦線の突破と、戦略的な啓開という局面の両方を遂行できる装甲師団の創設を主張した。しかし、こうしたことには熟練した将兵が必要であり、単純に運用できるものではなかった。戦車の「大規模な機動」が前線の突破をもたらすことは理解されており、これは即時に防御位置にある敵を包囲するべきであり、また敵軍の装甲予備兵力の迎撃を打倒しなくてはならなかった。さもなくば、攻撃に適した時期は失われるであろうし、速やかな占領と戦略的な要地の保持を行う機械化師団と装甲騎兵師団を進発させても、十分なほど長く突破口を開いたまま維持することはできなかった。 さらにこれは、深刻な補給上の問題を引き起こした。トラックは前線で戦闘中の戦車と直協できない。戦車部隊用に規定された再補給手順は、再び装備をととのえるために攻撃発起位置まで引き返すというものだった。それは以前の戦争の時代、より遅いテンポの作戦にはまだしも実際的であったが、現代の戦争では受け入れがたいものだった。戦車は、可能な限り速やかな前進再開のために戦場で補給されるべきであった。さらに以下の事柄から全装軌式の補給車輌が必要とされた。この補給車は砲弾でできた多数のクレーターと塹壕などが予想される悪い地形状況を克服でき、また砲弾破片に対抗し、自身を装甲で防御していなければならなかった。突破地域が敵軍の集中砲火の射程内にあると予測されたためである。 本車は歩兵と騎兵が保有する装甲部隊の双方に配備された。歩兵隷下の各独立戦車大隊、もしくは「Bataillon de Chars de Combat」は、12輌のロレーヌ牽引車によって一種の有機的な強さを有した。4輌の「peloton de reserve」つまり補給小隊は3個中隊ごとに配備された。ただし、装甲師団に編入されたBCCはシャール B1もしくはシャールB1 bisを装備しており、TRC 37Lにあっては27輌を保有していた。こうした3個中隊は6輌の牽引車を補給小隊に持ち、また1輌の牽引車を各3個戦車小隊用として有機的に用いた。この余剰な割り当てにより、これら重戦車の多量の燃料消費を補充することができた。重戦車は単に消費が多量なことを別にしても、限定的な航続能力しか持っていなかった。戦車3輌の各グループは、この場合には直に燃料補給の支援を受けた。 フランス戦の期間中、独立中隊が編成され、これらも4輌のロレーヌ牽引車を保有した。もしくは、シャールB1 bisの部隊であるならば割り当てが減らされ、8輌が配備された。しかし、旧式のルノー FT-17 軽戦車には燃料トラックのみがあてがわれた。同様にTRC 37Lはフランス植民地でも使用されなかった。ただ67e BCCはシャールD1を装備しており、この部隊は6月にチュニジアから転進しており、牽引車を供給されている。機械化歩兵師団ではTRC 37Lは使用されなかった。 騎兵部隊では各大隊に20輌の戦車を配備しており、3輌のロレーヌ牽引車を有した。また総計では24輌を、それぞれの機械化軽師団ごとに保有した。AMR 35またはパナール 178の部隊は本車ではなくトラックのみを使用したが、これは牽引車では速度が不十分と判断されたためである。より強いエンジンに換装し、最高速度50km/hをもたらしてこれを修正することが提案された。TRC 37Lはまた、軽騎兵師団にも存在していない。 現実には補給車輌は主に路上で行動し、予定の接触地点で戦車と合流した。理論上、ブルカノ燃料ポンプは15分で565リットルをくみ出すことができたため、燃料補給は比較的速いものだった。重戦車へ完全に再補給するには通常約40分から60分がかかった。ガソリン3,600リットルを運ぶ中隊の燃料トラックにより、被牽引車の燃料タンクは補充された。 中隊の補給品は大隊の補給部から補充され続け、トラックが50リットル入りのドラム缶を積んで移送した。こうした配分方法は、戦術レベルでは十分な燃料補給を保証したが、しかし戦略的な機動を行うにはあまりにも妨げの多いものだった。もし長距離を装軌式車輌でカバーするべきならば、戦車は燃料トラックから直接燃料補給をうけただろう。 5月10日、ドイツ軍が侵攻を開始したとき、フランスの戦車部隊はロレーヌ 37Lの606輌からなる有機的な強みを持っていた。しかしこの生産台数は、各部隊の公式な補充量を供給するには不十分だった。部隊の約3分の1は牽引車なしで済まさなければならなかった。この日、フランスの司令本部はTRC 37Lの能力を増すため、「1e」師団および「2e DCR」師団の戦力の半減を決定した。これらの装甲師団は、ドイツ軍がジャンブルーの間隙部分へ突破を試みることが予期されたため、これに対抗する予備兵力として目印をつけられた。また短い航続能力のシャールB1 bisはフランスの司令部から懸念が持たれた。十分な台数の牽引車を自由に使えるよう、未だに再編成中であった「3e DCR」は12輌のTRC L37を「1e DCR」に譲らねばならなかった。皮肉にも、ドイツ軍主力はフランスのスダンを突破し、「3e DCR」はこの阻止に向かわされた。また、より多数の燃料トラクターを保有したにもかかわらず、「1e DCR」は4月15日にも未だ燃料補給中であり、ドイツ軍の第7機甲師団に奇襲を受けた。 作戦中、TRC 37Lの搭乗員は若干武装する必要があることにすぐ気がつき、自らの車輌に機関銃架を即席に装備した。
※この「戦術的な機能と運用の歴史」の解説は、「ロレーヌ 37L」の解説の一部です。
「戦術的な機能と運用の歴史」を含む「ロレーヌ 37L」の記事については、「ロレーヌ 37L」の概要を参照ください。
- 戦術的な機能と運用の歴史のページへのリンク