戦中・戦後の活動
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1939年(民国28年)、重慶で、非国民党諸派による建国同志会(統一建国同志会)が結成されると、曽琦はこれに参加している。また、同年に中国国民党が5期5中全会で「異党制限活動弁法(原文「限制異党活動弁法」)」を提示すると、これに反対を示した。1941年(民国30年)夏、曽は香港に赴く。10月に建国同志会が改組され、中国民主政団同盟(後の中国民主同盟)が結成されると、引き続き曽はこれに加わり梁漱溟と機関紙『光明報』を刊行した。同年12月、香港が日本軍により陥落すると、曽は日本側の庇護の下で上海に移る。曽は汪兆銘政権(南京国民政府)から考試院副院長などの地位を授けられたが、実際には就任しなかった。 戦後、曽琦は四川に戻る。同年の第10回青年党全国代表大会で曽は主席に選出された。1946年(民国35年)1月に重慶で開催された政治協商会議(旧政協)にも曽は青年党代表として出席している。この前後から、曽ら青年党は国共和平交渉への反対姿勢を公にし、蒋介石への積極的支持に転じた。同年11月、曽らの青年党は中国民主社会党と共に制憲国民大会に参加し、両党は中国民主同盟を脱退している。1948年(民国37年)3月の行憲国民大会にも出席した。 同年10月より、曽琦は渡米し、蔣介石支持の言論活動を展開した。しかしその甲斐もなく、国共内戦で国民党は敗退し、台湾へ逃れる。青年党も台湾へ移ったが、曽は引き続きアメリカに留まり直接指導は行わなかった。 1951年(民国40年)5月7日、ワシントンD.C.にて病没。享年60(満58歳)。
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戦中・戦後の活動
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満州事変(九・一八事変)勃発後の1931年(民国20年)12月、李璜は青年党の左舜生・陳啓天、さらに熊希齢・馬相伯・黄炎培といった名士たちと協力して中華民国国難救済会を結成した。1934年(民国23年)、四川省に戻り、安撫委員会を組織している。 日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、李璜は国防最高委員会参議会委員に招聘された。1938年(民国27年)、漢口で『新中国報』という新聞を創刊する。その後、武昌大学、北京大学、成都大学で歴史学教授を歴任した。また同年6月から、第1期国民参政会参政員に選出され、以後第4期まで4期連続連続で務めている。 1945年(民国34年)4月、李璜はサンフランシスコ会議に中国代表団代表の1人として派遣され、国連憲章起草委員にも任ぜられた。1946年(民国35年)11月、制憲国民大会代表となった。翌1947年(民国36年)4月、王雲五の後任として国民政府経済部部長に任命されたが、実際には就任できなかった(翌月、陳啓天が後任となる)。
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戦中・戦後の活動
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日中戦争(抗日戦争)が本格化し始めた1938年(民国27年)3月に、朱家驊は軍事委員会参事室主任に任ぜられている。翌月には国民党中央執行委員会秘書長兼党務委員会主任委員兼中央調査統計局局長となり、党務方面で枢要を担当することになった。また、中央調査統計局局長となったため、陳果夫・陳立夫兄弟のCC派の一員とみなされている。7月には三民主義青年団幹事会常務幹事兼中央団部書記長代理となる。第二次世界大戦でドイツの快進撃を見た朱は中独合作の継続を主張したが、後に日独伊三国軍事同盟が成立したため断念せざるを得なかった。 1940年(民国29年)3月、中央研究院院長蔡元培が死去したため、朱家驊が中央研究院院長代行を務める。同年9月、朱は再び中山大学校長となったが、12月にまたしても中央大学校長に転じた。同月には、考試院副院長に任ぜられている。1944年(民国33年)11月、陳立夫の後任として教育部長に再び任命された。 戦後の1945年9月、朱家驊は国際連合教育文化会議に首席代表として出席した。翌年11月に正式に成立した国際連合教育科学文化機関にも代表団団長として臨んでいる。1947年(民国36年)4月、国防科学委員会副主任委員を兼任した。国共内戦末期の1949年(民国38年)6月には、広州に逃れた国民政府で行政院副院長を務めている。その後、朱は台湾に逃れ、総統府資政、国民党中央評議委員などを歴任した。 1963年(民国52年)1月3日、病没。享年71(満69歳)。
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戦中・戦後の活動
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1931年(民国20年)の満州事変(九・一八事変)に際しては、呉敬恒は抗日の姿勢を明らかにし、翌年3月の国民党4期2中全会では、『救国綱領意見』と『抗日救国綱領草案』を提出している。1938年(民国27年)12月、汪兆銘・陳璧君夫婦が重慶を脱出してハノイに至ると、長年来交遊があった呉は急いで諫止の手紙を送ったが、省みられることはなかった。翌年1月、激怒した呉は、国民党緊急中央会議において、汪の党籍につき永久削除を提案し、採択されている。 1943年(民国32年)8月、国民政府主席林森が交通事故により死去すると、蔣介石は呉敬恒に後任の主席となるよう要請した。しかし、呉はこれを固辞している。1946年(民国35年)11月の制憲国民大会と1948年(民国37年)の行憲国民大会にも代表として選出され、前者では国民大会主席として中華民国憲法の文書を蔣介石に手交した。1949年(民国38年)2月、呉は台湾に移住する。以後、中央研究院院士、国民党中央評議委員などをつとめたが、基本的に政治には関与せず閑居した。 1953年(民国42年)10月30日、台湾にて病没。享年89(満88歳)。
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