戦中戦後の活動とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦中戦後の活動の意味・解説 

戦中・戦後の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 07:08 UTC 版)

曽琦」の記事における「戦中・戦後の活動」の解説

1939年民国28年)、重慶で、非国民諸派による建国同志会統一建国同志会)が結成されると、曽琦はこれに参加している。また、同年中国国民党5期5中全会で「異党制限活動弁法(原文限制党活動弁法」)」を提示すると、これに反対示した1941年民国30年)夏、曽は香港赴く10月建国同志会改組され、中国民主政同盟(後の中国民主同盟)が結成されると、引き続き曽はこれに加わり梁漱溟機関紙光明報』を刊行した同年12月香港日本軍により陥落すると、曽は日本側の庇護の下で上海に移る。曽は汪兆銘政権南京国民政府)から考試院副院長などの地位授けられたが、実際に就任しなかった。 戦後曽琦四川に戻る。同年第10回青年全国代表大会で曽は主席選出された。1946年民国35年1月重慶開催され政治協商会議(旧政協)にも曽は青年党代表として出席している。この前後から、曽ら青年党は国共和交渉への反対姿勢公にし、蒋介石への積極支持転じた同年11月、曽らの青年党は中国民主社会党と共に制憲国民大会参加し、両党は中国民主同盟脱退している。1948年民国37年3月の行憲国民大会にも出席した同年10月より、曽琦渡米し蔣介石支持言論活動展開した。しかしその甲斐もなく国共内戦国民党敗退し台湾へ逃れる青年党も台湾へ移ったが、曽は引き続きアメリカ留まり直接指導は行わなかった。 1951年民国40年5月7日ワシントンD.C.にて病没享年60(満58歳)。

※この「戦中・戦後の活動」の解説は、「曽琦」の解説の一部です。
「戦中・戦後の活動」を含む「曽琦」の記事については、「曽琦」の概要を参照ください。


戦中・戦後の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 07:06 UTC 版)

李璜」の記事における「戦中・戦後の活動」の解説

満州事変九・一八事変勃発後の1931年民国20年12月李璜青年党の左舜生陳啓天、さらに熊希齢馬相伯黄炎培といった名士たちと協力して中華民国国難救済会を結成した1934年民国23年)、四川省戻り、安撫委員会組織している。 日中戦争抗日戦争)が勃発すると、李璜国防最高委員会参議会委員招聘された。1938年民国27年)、漢口で『新中国報』という新聞創刊するその後武昌大学北京大学成都大学歴史学教授歴任した。また同年6月から、第1期国民参政参政員に選出され以後第4期まで4期連続連続務めている。 1945年民国34年4月李璜サンフランシスコ会議中国代表団代表の1人として派遣され国連憲章起草委員にも任ぜられた。1946年民国35年11月制憲国民大会代表となった。翌1947年民国36年4月王雲五後任として国民政府経済部部長任命されたが、実際に就任できなかった(翌月陳啓天後任となる)。

※この「戦中・戦後の活動」の解説は、「李璜」の解説の一部です。
「戦中・戦後の活動」を含む「李璜」の記事については、「李璜」の概要を参照ください。


戦中・戦後の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 15:50 UTC 版)

朱家驊」の記事における「戦中・戦後の活動」の解説

日中戦争抗日戦争)が本格化始めた1938年民国27年3月に、朱家驊は軍事委員参事主任に任ぜられている。翌月には国民党中央執行委員会秘書長党務委員会主任委員中央調査統計局長となり、党務方面枢要担当することになったまた、中央調査統計局長となったため、陳果夫陳立夫兄弟CC派一員みなされている。7月には三民主義青年団幹事常務幹事中央団部書記長代理となる。第二次世界大戦ドイツ快進撃見た中独合作継続主張したが、後に日独伊三国軍事同盟成立したため断念せざるを得なかった。 1940年民国29年3月中央研究院院長蔡元培死去したため、朱家驊が中央研究院院長代行務める。同年9月は再び中山大学校長となったが、12月またしても中央大学校長に転じた同月には、考試院副院長に任ぜられている。1944年民国33年11月陳立夫後任として教育部長に再び任命された。 戦後1945年9月朱家驊は国際連合教育文化会議首席代表として出席した翌年11月正式に成立した国際連合教育科学文化機関にも代表団団長として臨んでいる。1947年民国36年4月国防科学委員会副主任委員兼任した国共内戦末期1949年民国38年6月には、広州逃れた国民政府行政院副院長務めている。その後台湾逃れ総統府資政、国民党中央評議委員などを歴任した1963年民国52年1月3日病没享年71(満69歳)。

※この「戦中・戦後の活動」の解説は、「朱家驊」の解説の一部です。
「戦中・戦後の活動」を含む「朱家驊」の記事については、「朱家驊」の概要を参照ください。


戦中・戦後の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:34 UTC 版)

呉敬恒」の記事における「戦中・戦後の活動」の解説

1931年民国20年)の満州事変九・一八事変に際しては、呉敬恒抗日姿勢明らかにし、翌年3月国民党4期2中全会では、『救国綱領意見』と『抗日救国綱領草案』を提出している。1938年民国27年12月汪兆銘陳璧君夫婦重慶脱出してハノイに至ると、長年交遊があった呉は急いで諫止の手紙を送ったが、省みられることはなかった。翌年1月激怒した呉は、国民党緊急中央会議において、汪の党籍につき永久削除提案し採択されている。 1943年民国32年)8月国民政府主席林森交通事故により死去すると、蔣介石呉敬恒後任主席となるよう要請した。しかし、呉はこれを固辞している。1946年民国35年11月制憲国民大会1948年民国37年)の行憲国民大会にも代表として選出され前者では国民大会主席として中華民国憲法文書蔣介石手交した1949年民国38年2月、呉は台湾移住する以後中央研究院院士国民党中央評議委員などをつとめたが、基本的に政治には関与せず閑居した。 1953年民国42年10月30日台湾にて病没享年89(満88歳)。

※この「戦中・戦後の活動」の解説は、「呉敬恒」の解説の一部です。
「戦中・戦後の活動」を含む「呉敬恒」の記事については、「呉敬恒」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦中戦後の活動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦中戦後の活動」の関連用語

戦中戦後の活動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦中戦後の活動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの曽琦 (改訂履歴)、李璜 (改訂履歴)、朱家驊 (改訂履歴)、呉敬恒 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS