律令制と軍団の設立
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白村江の戦いの敗北以降、国家兵力増強が方針となった。大規模な歩兵集団戦も可能とする目的で、豪族の支配民からなる私兵であった国造軍に代わり、国家が全人民を支配し兵士を徴兵し(国民皆兵)、民政機構から分独立した軍団の組織が始まり、各国に駐屯することとなった。 7世紀後半には律令制が本格的に導入される。軍事制度も整備され(軍防令)、中央官制の兵部省が設置され、徴兵を可能にする戸籍の整備が進んだ(正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった)。徴兵された兵士は各地に設置された軍団に配属された。原則としては現地勤務であるが、一部の兵士は宮中警備を担う衛士と九州防衛を担う防人となった。一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、千人を超える例も存在したと考えられている。軍団は3~4郡ごとに設置されており、九州では各国に2~4個軍団(1600~4000人)が置かれていたことが記録に残っている。軍団兵士の数は20万人に達したとの見方もある。但し、軍団の兵士は交代で勤務しており、通常の兵力は定数の数分の一であった。 この軍団兵力は外征も可能なものであった。759年、藤原仲麻呂は新羅征伐の準備をさせている。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画であった。しかし、孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わっている。 なお蝦夷と対峙する陸奥国には、軍団とは別に鎮守府に属する鎮兵と呼ばれる固有の兵力が常設配備されていた。鎮守府は始め多賀城(現宮城県多賀城市)におかれ、後に胆沢城(現岩手県奥州市)に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥国府がおかれていた。この他にも蝦夷に対する備えとして、軍事・行政機能を有する多数の城柵が築かれた。 古墳時代以来の地方首長層に出自する郡司の子弟は、指揮(軍毅)および騎兵の役についた。弓馬が得意なものは騎兵とすることとなっていた。騎兵は、基本的に弓射騎兵であるが、槍を扱う突撃騎兵も存在したと推定される。 一般の軍団兵士の大多数は歩兵であったと考えられる。軍団兵士は、自弁で弓矢・大刀・小刀等を用意する必要があった。その他の官給の武器として矛や弩があり、弩に関しては体格と腕力に優れた者が隊(50名)ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた。弩は朝鮮を経由して日本へは古くから導入されたが、威力向上の改良が行われた。 奈良時代・平安時代前半(8世紀-10世紀)の甲冑については、聖武天皇崩御77回忌にあたる天平勝宝8年6月21日(756年7月22日)に、光明皇太后が亡帝の遺品を東大寺に献納した際の目録『東大寺献物帳』に「短甲・挂甲」の名が見える。延長5年(927年)成立の『延喜式』にも見えることから、10世紀代までは存在していた甲冑形式と考えられている。実際にどのような姿であったのかは遺物が小札の残欠程度しか残っておらず明確ではなかったが、今日の研究では「短甲」は「胴丸式挂甲」(どうまるしきけいこう)、「挂甲」は「裲襠式挂甲」(りょうとうしきけいこう)と呼ばれる形態だったと推定されている。また、鉄製以外のものでは「綿襖甲」・「綿襖冑」や「革製甲」が使用されていた。 遠征軍が組織される場合は、兵一万人以上(一軍)なら将軍一人、三軍ごとに大将軍一人を置くこととなっていた。実際には三軍からなる遠征軍が編成されることはなかったが、大規模な軍や三位以上のものが軍を指揮する場合には、大将軍の呼称が用いられた。著名な例としては、8世紀終わりから9世紀始めにかけての陸奥国での蝦夷に対する戦争で征夷大将軍に任ぜられた、坂上田村麻呂がある。 なおこの頃中国から兵法が伝わっている。『続日本紀』によると、大宰府にあった吉備真備のもとへ、760年に『孫子の兵法』を学ぶために下級武官が派遣されたことが記されている。真備は764年に起きた藤原仲麻呂の乱では孫子の兵法を実戦に活用したとされている。
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