広く伝わった「包公故事」
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いかなる社会においても多くの場合、活躍した人物が著名であっても、死後にはその存在が人々の記憶から薄れてゆくのが自然である。ごく一部の人物のみ、後世の人々の関心を引き付け、さらに名前が広く知れわたることがある。包拯の場合、在世当時でも庶民から人気(信任)を得ていたが、最後の官位は枢密副使どまりであった。没後しばらくして、中国の歴史上で最も有名な清廉潔白な官吏として知られるようになり多くの伝説が出来上がった。 没後190年ほど後の南宋末期、金の元好問撰『続夷堅志』巻一 4 「包女得嫁」の条では、包拯が生前正直であったので没後冥界の役所を司っているという話になっている。そして、宋元代には講談の種本である「話本」、古典地方劇の「戯文」や「雑劇」「鼓子詞(こしし)」、明清代には語り物の一種である「詞話」や「白話小説」「公案小説(中国語版)などにより、特色ある文化現象として形成される。 最も早く包公故事を文学の領域まで踏み込ませたのが、宋代に広く民衆に人気のあった「説唱」と呼ばれる、語りと歌をあわせた芸能から発展した「説話」であった。宋代には、都市の経済と文化が繁栄しており、北宋の開封や南宋の杭州のような大都市では、役人から商人、職人など幅広い階層の人々が集まり、雑劇、舞踏、鼓子詞や話本の発達をみた。その中でも「話本」は、主に「小説」と、歴史物語である「講史」に分かれ、小説は講史より内容が短く題材の幅が広い。小説には妖怪、伝説、神仙、妖術、公案(事件裁判もの)などがあり、宋代に撰述された「公案小説」は10篇ほどが伝わっている。 包公の公案小説は「合同文字記」と「三現身包龍図断冤」の2篇があるが、いずれも宋代の刊本は残存せず明代に編纂された六十家小説や三言二拍などに採録されたものである。 元代は小説などよりも演劇(元曲)が盛んになり、演じられた演目の中で公案を題材にした作品、公案劇が18種類残存しており、そのうち以下の11種類が包公関連である。 関漢卿「包待制三勘蝴蝶夢」 関漢卿「包待制智斬魯斎郎」 鄭延玉「包待制智勘後庭花」 武漢臣「包待制智賺生金閣」 李行道「包待制智勘灰闌記」 作者不明「包待制陳州糶米」 作者不明「包龍図智賺合同文字」 作者不明「神奴児大鬧開封府」 作者不明「玎玎璫璫盆児鬼」 曽瑞卿「王月英元夜留鞋記」 作者不明「張千替殺妻」 このように、元代に書かれた公案劇の6割ほどを包公ものが占めている理由としては、当時から各地に広く伝えられ民衆に与えた影響が大きかったため、と推測されている。これらの劇では、包公が公平に法を取り仕切るだけでなく、どのような悪人にも立ち向かい、その上に計略にも長け機知に富んでいる人物として描かれている。11種類の公案劇の中で処刑された人物は11人であり、皇族1名、官僚3名、その他に盗賊や商人などがいる。処刑された罪人以外では、流刑、財産没収、免職となった人物が10人以上を数える。このように幅広い階層にわたって処罰されているのは、当時の時代背景が関わっていると考えられる。当時は異民族モンゴルの王朝であり、社会の矛盾に対して民衆が激しく反応する時代であった。それに対する民衆が期待する役人像として、包公に反映されたと考えられる。 明代になると、公案小説が流行し多くの公案小説集が編纂されたが、万暦年間(1573年 - 1620年)以降の作品から採録、編纂されたものが『龍圖公案』(通称『包公案』)とされる。成立年に関しては天啓・崇禎年間(1621年 - 1644年)に雕版されたものが最早と推定されており、正確な成立年は不詳。『龍圖公案』に採録された公案小説は、『百家公案』から48則(51回)、『詳刑公案』から12則、『律條公案』から13則、『廉明公案(中国語版)』から22則、冥間断獄譚12則、その他出所不明3則、計100則で、これらの作品の文章を刪削、裁判官を包拯に変更、あるいは包拯を追加登場させて『龍圖公案』としたものである。このため文章の評価は低い。 清代になると長編の章回小説(中国語版)が隆盛をきわめる。包拯を扱った小説としては道光年間(1821年 - 1850年)の講釈師の石玉昆(中国語版)が書いた侠義小説『三侠五義』が、最も有名なものである。 伝説が広まるにつれ、包公は道教信仰において閻魔と同一だと考えられるようになり、あちこちに包公を祀る廟も立てられるようになった。
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