宋元代
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宋代(北宋、960年 - 1127年)になると、搗いて粉にするのではなく、茶葉を研(す)って粉にするようになり、これを研膏茶と呼ぶ。宮廷(皇帝)への献上品として、最高級の研膏茶を固形の団茶にした「竜鳳茶」が作られたが、その後蔡襄によって更に上等の「小竜団」が作られ、進貢された。献上茶には、竜脳、珍果、香草などを混ぜて香り付けしたものもあった。元豊年間(1078 - 1085年)の「密雲竜(のち瑞雲翔竜)」、大観年間(1107 - 1110年)の「御苑玉芽」「万寿竜芽」「無比寿芽」、宣和2年(1120年)の「新竜園勝雪」と次々に高級団茶が開発され、金では買えない宝として扱われた。 産地としては、中唐の頃には知られていなかった福建が献上茶の筆頭となり、皇室御用の茶を栽培する北苑が福建に設けられ、「竜鳳茶」などを製造した。蔡襄の著した『茶録』にも、北苑系の建安の茶が第一とされている。南宋から元にかけて、北苑が衰えると、福建北部の武夷山がこれに取って代わった。武夷山は岩ばかりの山であり、わずかな土壌に生える茶が武夷岩茶として珍重された。 乾徳3年(965年)、宋は茶の専売制を敷いた。ただし、当初は茶の生産から運搬、流通まで官が行うこととされたが、困難であったため、後に、商人に茶を払い下げる際に徴税することとなった。熙寧3年(1070年)にいったん自由売買が認められたが、財政難から元豊7年(1084年)に専売制が復活した。 専売制は交易上も大きな意味を持った。中国本土に少し遅れて、青海付近のチベット人が茶を飲むようになった。茶を産しないチベットでは宋から茶を入手する必要があり、宋にとっては茶が絹に代わるチベットへの輸出品となった。宋初に、チベット系政権西夏との国境付近の原州、渭州、徳順(現在の甘粛省鎮原、平涼、静寧)3郡に茶と馬との交易場が設けられた。元豊6年(1083年)、茶場司と買馬司を統合した茶馬司という役所ができ、交易を管理することになった。その後、茶の産地から遠く離れた塞外民族も、茶を不可欠とするようになった。肉食の塞外民族はビタミンCの補給のために茶を必要としたとの説がある。南宋(1127 - 1279年)の時代には、茶はチベットに対してだけではなく北の金やモンゴルに対しても主要な輸出品となった。
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宋・元代
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宋代には口承文芸に近い口語文章語で書かれた説話や白話小説が出現し伝奇小説は衰微し始める。また商業の発展にともなって商人の生活も多く描かれるようになった。 作者不明の『王榭(おうしゃ)』は、商人が嵐で船が難破して燕の国を訪れる話。 洪邁 は唐代の伝奇小説が唐詩に劣らずすぐれたものであることを認め、怪異譚の収集や執筆を行い『夷堅志』にまとめている。『呉小員外(ごしょういんがい)』や『太原意娘』が著名である。ともに死んだ女の幽霊に憑りつかれる話で、前者は法師の呪力によって助かり、後者は裏切った男の枕に死んだ女が現れ男が落命するという話。 宋遠 作とされる『嬌紅記(中国語版)』は、伝奇小説が衰微し元曲が盛んになった元代に書かれたとされる伝奇小説であるが、字数が多いため小説長編化の嚆矢とも言われる。
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