宋哲元の糾弾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/11 14:37 UTC 版)
当時の宋哲元軍つまり第二十九軍は張家口に第三十七師、張北に第百三十二師、宣化に第三十八師、保安に暫編第二師を有し、二万の新兵を募集していたため、その兵力は六万から七万を有し、また排日の首魁馮玉祥の元部下であり、その時期にあった熱河戦では喜峰口で日本軍に頑強に抵抗した経験を持つ排日思想の強い軍隊ゆえに中国北部の排日軍閥一掃を望むなら無視できない存在となっていた。関東軍は日頃の宋哲元が日本と満州に対して挑戦的であったため、この機会をとらえて糾弾することになった。 6月17日関東軍幕僚会議では以下の決定がなされた。 宋哲元の満州国への挑戦的態度は軍として隠忍し難く、多くの公約や警告にも反省する姿勢がない。ゆえに匪賊として対処する他はない。 宋哲元は満州国辺境の治安を乱す匪賊以外のものではない。関東軍は再度宋哲元の処罰を国民政府に強硬に求める。 国民政府が要求を入れずに引き延ばし策を用いれば関東軍は断乎とした行動を取らねばならない。 その翌日、南京政府行政院は宋哲元の罷免を決定した。
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