宋始らの離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
東晋の司州刺史李矩が金墉(洛陽城内の西北の角にある小城)を攻略すると、左中郎将宋始・振威将軍宋恕・尹安・趙慎は寝返って洛陽ごと石勒に降伏した。劉曜は大将軍・広平王劉岳を征東大将軍に任じ、洛陽に向かわせた。しかし、三軍に疫病が流行ると、劉岳は澠池に駐屯した。石勒は石生を派遣して宋始らを迎えさせたが、彼らは心変わりして李矩に投降した。李矩は潁川郡太守郭黙に兵を率いて洛陽に入らせた。石生は宋始軍を攻撃して将兵を捕虜にし、その軍勢は大いに盛んとなった。劉岳は洛陽から西に後退して、陝城を守った。その後、石生は黄河を北に渡って引き上げた。河南の人々は皆、李矩に帰順し、洛陽が空になった。 5月、張春と楊次が司馬保を捕えて殺害した。陳安は劉曜に司馬保の世子である司馬瞻討伐を請うと、劉曜は陳安を大将軍に任じた。陳安は司馬瞻を攻撃して殺した。
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