宋学の受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:30 UTC 版)
鎌倉時代末期の社会不安により、為政者の間で「徳政」つまり古代の聖人・賢者に学んで徳に従った改革を行うという思想が普及し、その過程で、儒学の新解釈である宋学と、『孟子』が朝廷に普及した。最も積極的だったのが、(後醍醐とは敵対派閥である)持明院統の花園天皇で、量仁親王(後の光厳天皇)に宛てた『誡太子書』では、易姓革命の思想を説き、たとえ天皇といえども勉学と仁政を疎かにしては位を失う可能性があると訓戒している。一方、後醍醐天皇側でも、「後の三房」吉田定房・万里小路宣房・北畠親房ら側近たちが率先して宋学と『孟子』を学び、彼らの文章には『孟子』の引用が見られる。こうした公家徳政の思想は、朝廷では訴訟制度の改良という方向で形を為すことが多く、建武政権が様々な面で訴訟制度を整備したのも、この延長として捉えることができる。 才人を取り立てるという儒学思想に基づき、定房の弟吉田冬方や、中流貴族日野家のさらに傍流である日野俊基を、宋学研究の頭として抜擢した(『花園天皇宸記』元応元年(1319年)9月6日条)。学問偏重の傾向は、平惟継など風流好みの公卿からは批判された一方で、公家としてはそこまで身分が高くない日野俊基を取り立てた事件は、敵の持明院統のリーダーである花園天皇からすらも、賢才が立身出世できるなら良いことだと称賛された。 後醍醐天皇は、禅風においても禅と宋学の一致を試みた宋朝禅を好み、そのため宗峰妙超や夢窓疎石といった日本の禅林の基礎を築いた禅僧を取り立てたのも、後醍醐の宋学受容上の功績の一つである。 この時代の宋学隆盛の影響は、『徒然草』や『太平記』、連歌を大成した二条良基の歌論といった文芸にも影響を見ることができる。 研究史:1965年に佐藤進一が「後醍醐天皇は宋学をモデルとした皇帝独裁政治を企み鎌倉幕府を滅ぼした」という説を発表し、後には森茂暁もこの説に沿って解説をする等、この独裁君主論は長らく通説として支配的だった。しかし、新田一郎が指摘するように、宋学そのものに君主独裁に直接的に結びつく内容は存在しない。小川剛生も、難関な哲学体系である宋学と討幕運動を結び付けるのは、飛躍がありすぎるとしている。宋学の一つである朱子学が曲解されて、上下の身分秩序を重んじる名分論に発展したのは、多くは山崎闇斎ら江戸時代の学者の産物である。また、佐藤は宋学を勉強するうちに宋の独裁政を学んだのだと主張するが、史料的根拠がない上に、そもそも(名前から誤解しやすいが)宋学は宋の国学ではなく、宋学が中華王朝を支える学問になったのは、後醍醐天皇が1339年に崩御してから30年近く経ってから成立した明(1368–1644年)の代からである。思想だけではなく、法制の側からも、1990年代からの研究の進展により、後醍醐天皇は鎌倉時代末からの流れに沿って中央集権化を徐々に進める傾向ではあったものの、独裁制と名付けられるほど特徴的なものではなかったことが示されている。
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