宋子良との接触
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影佐とともにこの工作を推進していた今井武夫は、汪政権の樹立に力を尽くすと同時に蔣介石の重慶政権との和平こそが最終的な日中和平につながるとみて、1939年(昭和14年)12月末、蔣介石夫人宋美齢の弟・宋子良との接触を非公式に開始した。翌1940年(昭和15年)、宋子良との会談で、さしあたって正式な和平会議の前提を議論するための、日中両国の非公式な使節による予備会談をもつことを決定した。今井はこれを参謀総長の閑院宮載仁親王と畑俊六陸軍大臣に報告した。この報告はさらに昭和天皇へと上奏された。 参謀本部と陸軍省はこの工作を「桐工作」と命名し、宋子良の提案通り予備会談を開き、臼井茂樹大佐・今井武夫大佐・鈴木卓爾中佐らをそこに参加させた。会談は香港で開かれたが、満洲国承認問題をめぐって紛糾し、6月には廈門で再度会談が開かれた。日本側は、南京の汪兆銘と重慶の蔣介石両政府の合作(協力)を日本が仲介すること、汪・蔣・板垣征四郎の三者会談を開くことを求めたが、宋は蔣介石本人の出席は難しいと応答しながらも会談場所として長沙を指定した。7月末、重慶政府からもたらされた回答は、汪・蔣合作に関して日本は介入しないことや「国民政府を対手とせず」の近衛声明(第一次)の撤回の要求であった。同じころ、日本では米内光政内閣が倒れて第二次近衛文麿内閣が成立した。桐工作にかける近衛文麿首相の期待は大きく、宋子良に託すため蔣介石あての親書を用意したほどであった。しかし、新陸相の東條英機は桐工作についてはきわめて冷淡であった。 ところが、「宋子良」を名乗った人物は、実は中国側の特務機関員であったということがのちに判明した。真相は、日本側の焦慮に乗じた謀略であった。汪兆銘工作と併行しておこなわれたこの謀略は重慶政府による汪兆銘政権への攪乱をはかったものとみることもできる。9月、「宋子良」は、重慶政府内で懸案となっているのは満洲国承認と日本軍の駐兵問題であり、「懸案の二件は日華和平実現の癌なれば、日本側にて譲歩する以外、和平実現の見込みなし」と明言したことで、1940年(昭和15年)9月27日、帝国陸軍支那派遣軍は桐工作を中止するに至った。同日、日本はドイツ国・イタリア王国とのあいだで日独伊三国軍事同盟を結んだ。
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