宋子良との接触とは? わかりやすく解説

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宋子良との接触

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:53 UTC 版)

桐工作」の記事における「宋子良との接触」の解説

影佐とともにこの工作推進していた今井武夫は、汪政権樹立力を尽くす同時に蔣介石重慶政権との和平こそが最終的な日中和平につながるとみて、1939年昭和14年12月末、蔣介石夫人宋美齢の弟・宋子良との接触を非公式に開始した。翌1940年昭和15年)、宋子良との会談で、さしあたって正式な和平会議前提議論するための、日中両国非公式な使節による予備会談をもつことを決定した今井はこれを参謀総長閑院宮載仁親王畑俊六陸軍大臣報告した。この報告はさらに昭和天皇へと上奏された。 参謀本部陸軍省はこの工作を「桐工作」と命名し宋子良提案通り予備会談開き臼井茂樹大佐今井武夫大佐鈴木卓爾中佐らをそこに参加させた。会談香港開かれたが、満洲国承認問題めぐって紛糾し6月には廈門再度会談開かれた日本側は、南京汪兆銘重慶蔣介石政府合作協力)を日本仲介すること、汪・蔣・板垣征四郎三者会談を開くことを求めたが、宋は蔣介石本人出席難しいと応答しながらも会談場所として長沙指定した7月末、重慶政府からもたらされ回答は、汪・蔣合作に関して日本介入しないことや「国民政府を対手とせず」の近衛声明第一次)の撤回要求であった。同じころ、日本では米内光政内閣倒れて第二次近衛文麿内閣成立した桐工作にかける近衛文麿首相期待大きく宋子良託すため蔣介石あての親書用意したほどであった。しかし、新陸相東條英機桐工作についてはきわめて冷淡であった。 ところが、「宋子良」を名乗った人物は、実は中国側特務機関であったということがのちに判明した真相は、日本側の焦慮乗じた謀略であった汪兆銘工作併行しておこなわれたこの謀略重慶政府による汪兆銘政権への攪乱はかったものとみることもできる9月、「宋子良」は、重慶政府内で懸案となっているのは満洲国承認日本軍駐兵問題であり、「懸案の二件は日華和平実現の癌なれば、日本側にて譲歩する以外、和平実現見込みなし」と明言したことで、1940年昭和15年9月27日帝国陸軍支那派遣軍桐工作中止する至った同日日本ドイツ国イタリア王国とのあいだで日独伊三国軍事同盟結んだ

※この「宋子良との接触」の解説は、「桐工作」の解説の一部です。
「宋子良との接触」を含む「桐工作」の記事については、「桐工作」の概要を参照ください。

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