巨人の初代エースとは? わかりやすく解説

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巨人の初代エース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:13 UTC 版)

沢村栄治」の記事における「巨人の初代エース」の解説

1935年2月から7月にかけての大日本東京野球倶楽部アメリカへの到着時に東京ジャイアンツ改名)の第一次アメリカ遠征参加当初70試合程度予定していたが、アメリカで沢村人気もあって、計画は110試合拡大した当時AA現在のAAAパシフィックコーストリーグの8球団のほか、アメリカ・カナダ・メキシコ・ハワイを回ってノンプロ大学在留邦人チーム対戦ジャイアンツはコーストリーグの8球団から挙げた7勝のうち、5勝は沢村力投よるものであったそのほか遠征全体沢村21勝8敗1分、313奪三振戦績を残す。この遠征では、当時未だマイナーサンフランシスコ・シールズ)にいたジョー・ディマジオとも対戦するが、三振を奪うどころか物凄い本塁打打たれてしまったという。遠征中に対戦したポートランド・ビーバーズのビジネスマネジャーであるローイ・マック(コニー・マック次男)からは、沢村本人希望があればチーム預かってぜひアメリカで大成させたいとの希望伝えられた。また、遠征途中ミルウォーキーでは、あるアメリカ人書類差し出してきたので、サイン求められたと考えた沢村気軽にサインするが、実はそのアメリカ人セントルイス・カージナルススカウトで、書類契約書だったという逸話もある。 同年9月から11月にかけての巨人国内巡業にも参加この間小倉大連実業対戦した際に大連エース谷口五郎から指導を受ける。この指導沢村投球大きな影響与え沢村谷口のことを恩師一人数えていた。また、11月3日藤本定義監督率い全大宮戦では、5回裏に3安打2四球乱れて2点を失うなど、1-4巡業唯一の敗戦喫している。巡業通算では、22勝1敗、158回で187三振奪ったまた、打撃でも打率.301を残した。 翌1936年2月から5月にかけての第二次アメリカ遠征では前回ほど調子上がらず1111敗、防御率4.97に終わった職業野球リーグ開始され1936年夏季リーグより巨人参戦するが、チームは2勝5敗と苦戦し沢村も1勝1敗の平凡な成績に終わる。この頃アメリカ遠征投手大切にされるの見てきた沢村始めとした投手陣は、監督藤本定義反抗的な態度取っていた。練習にも身を入れず、試合負けてヘラヘラし、夜は宴会ばかりの有様だった。特に沢村に関しては、信頼していた初代監督三宅大輔内紛によりチーム去っていたことも原因一つであったらしい。ここで、巨人立て直しのための茂林寺の特訓が行われる。当初野手陣猛練習するのを横目に投手陣はのんびり練習見物をしていたが、新人白石敏男猛特訓に耐えて死に物狂い練習するする姿を見て投手陣心を入れ替えて練習に励むようになった。目が覚めるのが一番早かったのは沢村で、目の色を変えて練習打ち込むようになり、練習相手だった捕手中山武によると、特訓打ち上げの頃には完全に全盛期水準までコンディション回復していたという。 秋季リーグでは、9月25日の対大阪タイガース戦で中山武とのバッテリープロ野球史上初のノーヒットノーラン達成タイガース側からノーヒットだけは恥ずかしいから、と何度も言われ中山は、6回頃から景浦将小島利男タイガース打者に、「今度ストレート」「今度ドロップ」と球種教えたが、それでも打てなかったという。シーズンでは13勝(2敗)防御率1.04(リーグ2位)で最多勝利タイトル獲得同年12月大阪タイガースとの優勝決定戦では3連投し巨人初優勝もたらした2010年代になって、この試合記録した2分程度動画フィルム神奈川県発見されNHKによる画像修正作業経て2015年6月11日NHK総合クローズアップ現代」で放送された。沢村投球動画としては唯一のものとなっている。この頃誰かがピストル弾丸沢村投球速さ比較して新聞発表したため、沢村の球はピストルよりも速いなどと言われていた。 翌1937年春季リーグでは、5月1日の対大阪タイガース戦で二度目ノーヒットノーラン記録。この試合では、スピードもちろんのことすばらし制球力タイガース打者弱点余すところなく突いて抑え込んだ。このシーズン巨人大阪激し優勝争いを展開。巨人首位大阪1.5ゲーム差2位追っていたが、6月26日,27日最後直接対決沢村は右目の負傷押して2試合連続完投勝利を挙げて首位に立つ。巨人そのまま僅差逃げ切って0.5ゲーム差優勝した沢村シーズンではチーム勝利41勝)の半分上回る24勝(4敗)、防御率0.81の成績残して最多勝利最優秀防御率タイトル獲得。さらに、7完封勝率.857、196奪三振トッププロ野球史上初となる投手五冠を達成1980年代宇佐美徹也提唱)。巨人優勝大きく貢献し初代MVP最高殊勲選手)に選出された。 沢村速球なすすべもなく敗れた大阪は、監督石本秀一打撃練習時に通常のプレートより1メートル前から投手投げさせる沢村対策猛練習を行う。この対策のためか、秋季リーグ沢村大阪に0勝4敗と打ち込まれシーズンでも9勝(6敗)防御率2.38(リーグ6位)に留まるまた、同年大阪との優勝決定戦では、沢村は1勝2敗に終わり巨人は2勝4敗で大阪優勝を攫われている。この頃大阪豪打であった景浦将とは良きライバルで、名勝負繰り広げてファン沸かせた。

※この「巨人の初代エース」の解説は、「沢村栄治」の解説の一部です。
「巨人の初代エース」を含む「沢村栄治」の記事については、「沢村栄治」の概要を参照ください。

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