巨人の初代エース
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1935年2月から7月にかけての大日本東京野球倶楽部(アメリカへの到着時に東京ジャイアンツに改名)の第一次アメリカ遠征に参加。当初は70試合程度を予定していたが、アメリカでの沢村の人気もあって、計画は110試合に拡大した。当時AA(現在のAAA)パシフィックコーストリーグの8球団のほか、アメリカ・カナダ・メキシコ・ハワイを回ってノンプロ・大学・在留邦人のチームと対戦。ジャイアンツはコーストリーグの8球団から挙げた7勝のうち、5勝は沢村の力投によるものであった。そのほか、遠征全体で沢村は21勝8敗1分、313奪三振の戦績を残す。この遠征では、当時未だマイナー(サンフランシスコ・シールズ)にいたジョー・ディマジオとも対戦するが、三振を奪うどころか物凄い本塁打を打たれてしまったという。遠征中に対戦したポートランド・ビーバーズのビジネスマネジャーであるローイ・マック(コニー・マックの次男)からは、沢村本人の希望があればチームで預かってぜひアメリカで大成させたいとの希望が伝えられた。また、遠征の途中のミルウォーキーでは、あるアメリカ人が書類を差し出してきたので、サインを求められたと考えた沢村は気軽にサインするが、実はそのアメリカ人はセントルイス・カージナルスのスカウトで、書類は契約書だったという逸話もある。 同年9月から11月にかけての巨人の国内巡業にも参加。この間、小倉で大連実業と対戦した際に大連のエース谷口五郎から指導を受ける。この指導は沢村の投球に大きな影響を与え、沢村も谷口のことを恩師の一人に数えていた。また、11月3日の藤本定義監督率いる全大宮戦では、5回裏に3安打2四球と乱れて2点を失うなど、1-4で巡業で唯一の敗戦を喫している。巡業通算では、22勝1敗、158回で187三振を奪った。また、打撃でも打率.301を残した。 翌1936年2月から5月にかけての第二次アメリカ遠征では前回ほど調子が上がらず、11勝11敗、防御率4.97に終わった。 職業野球リーグが開始された1936年の夏季リーグより巨人が参戦するが、チームは2勝5敗と苦戦し、沢村も1勝1敗の平凡な成績に終わる。この頃、アメリカ遠征で投手が大切にされるのを見てきた沢村を始めとした投手陣は、監督の藤本定義に反抗的な態度を取っていた。練習にも身を入れず、試合で負けてもヘラヘラし、夜は宴会ばかりの有様だった。特に沢村に関しては、信頼していた初代監督の三宅大輔が内紛によりチームを去っていたことも原因の一つであったらしい。ここで、巨人立て直しのための茂林寺の特訓が行われる。当初、野手陣が猛練習するのを横目に投手陣はのんびり練習見物をしていたが、新人の白石敏男が猛特訓に耐えて死に物狂いで練習するする姿を見て、投手陣も心を入れ替えて練習に励むようになった。目が覚めるのが一番早かったのは沢村で、目の色を変えて練習に打ち込むようになり、練習相手だった捕手の中山武によると、特訓の打ち上げの頃には完全に全盛期の水準までコンディションが回復していたという。 秋季リーグでは、9月25日の対大阪タイガース戦で中山武とのバッテリーでプロ野球史上初のノーヒットノーランを達成。タイガース側からノーヒットだけは恥ずかしいから、と何度も言われた中山は、6回頃から景浦将や小島利男らタイガースの打者に、「今度はストレート」「今度はドロップ」と球種を教えたが、それでも打てなかったという。シーズンでは13勝(2敗)防御率1.04(リーグ2位)で最多勝利のタイトルを獲得。同年12月の大阪タイガースとの優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらした。2010年代になって、この試合を記録した2分程度の動画フィルムが神奈川県で発見され、NHKによる画像修正作業を経て2015年6月11日のNHK総合「クローズアップ現代」で放送された。沢村の投球動画としては唯一のものとなっている。この頃、誰かがピストルの弾丸と沢村の投球の速さを比較して新聞に発表したため、沢村の球はピストルよりも速いなどと言われていた。 翌1937年春季リーグでは、5月1日の対大阪タイガース戦で二度目のノーヒットノーランを記録。この試合では、スピードはもちろんのことすばらしい制球力でタイガース打者の弱点を余すところなく突いて抑え込んだ。このシーズンは巨人と大阪が激しい優勝争いを展開。巨人は首位大阪を1.5ゲーム差の2位で追っていたが、6月26日,27日の最後の直接対決で沢村は右目の負傷を押して2試合連続完投勝利を挙げて首位に立つ。巨人はそのまま僅差で逃げ切って0.5ゲーム差で優勝した。沢村はシーズンではチーム勝利(41勝)の半分を上回る24勝(4敗)、防御率0.81の成績を残して最多勝利と最優秀防御率のタイトルを獲得。さらに、7完封、勝率.857、196奪三振もトップでプロ野球史上初となる投手五冠を達成(1980年代に宇佐美徹也が提唱)。巨人の優勝に大きく貢献し、初代MVP(最高殊勲選手)に選出された。 沢村の速球になすすべもなく敗れた大阪は、監督の石本秀一が打撃練習時に通常のプレートより1メートル前から投手に投げさせる沢村対策の猛練習を行う。この対策のためか、秋季リーグで沢村は大阪に0勝4敗と打ち込まれ、シーズンでも9勝(6敗)防御率2.38(リーグ6位)に留まる。また、同年の大阪との優勝決定戦では、沢村は1勝2敗に終わり、巨人は2勝4敗で大阪に優勝を攫われている。この頃、大阪の豪打者であった景浦将とは良きライバルで、名勝負を繰り広げてファンを沸かせた。
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