茂林寺の特訓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:47 UTC 版)
1936年より初めて職業野球のリーグ戦が開始。巨人は春季大会を欠場し前年に引き続きアメリカ遠征を行うが、白石はここで一塁手から遊撃手に転向した。巨人は帰国後の夏季大会からリーグ戦に参加するが、内紛によって田部武雄・三原脩(8月復帰)・水原茂(11月復帰)ら主力選手が退団したこともあり、6月から7月にかけての夏季大会で惨敗を喫してしまう。その後の満州遠征でも物見遊山気分で夜遊びにふける選手が多く、これを見た監督の藤本定義は、9月5日より群馬県館林市の分福球場で緊急キャンプを敢行する。 藤本は「巨人軍は職業野球の先達だ、負けるわけにはいかん、どんなことをしても勝たねばいかんのだ」と力説。選手達に猛練習を課し、連日千本ノックの特訓を続けた。しかし、肝心の沢村栄治やヴィクトル・スタルヒンら投手陣に激しいノックは出来ず、投手陣は外野であくびをしながら高みの見物だった。監督の藤本と選手兼助監督の三原の標的になったのは若手選手で、最年少で一塁手から遊撃手にコンバートされたばかりの白石に対しては特に過酷な練習が課された。藤本が白石の素直で忍耐強い性格を買ったからだとされる。これに対して白石も「一塁は永沢さん、二塁には名手三原さん、三塁は前川さんだから、新人で補欠みたいな私にとって、ショートしか取れるところはない」と死に物狂いで練習した。炎天下でノックを受けたのち、暫時の休養を挟んで打撃練習が始まるとすぐに打席に立つ。その直後、投手・前川八郎の初球シュートがヘルメットを被っていない白石のこめかみを直撃。駆け寄る他の選手たちに対して白石は「どきんしゃい、ワシャこのまま打つけ(どいて下さい、私はまだ打ちますから)」と言うものの、三原に「打ってはいかん。休め」と言われベンチに寝かされた。ところが、ベンチでも「打つけ」と繰り返し起きようとする白石を見て、沢村ら他の選手達も真面目に練習に取り組み始めた。白石は疲労困憊のあまり、練習が終わって球場から宿舎に戻る1駅3分の電車の中で、立つことはおろか座席につくことすらできず、床にべたっと座っていたという。同年の秋季大会で、巨人は勝ち点で並んだ大阪タイガースを優勝決定戦で下して初優勝を飾ると、以降も戦前11シーズンで8度の優勝を成し遂げ第一次黄金時代を築く。このため後年になって茂林寺の特訓は常勝巨人の土台を築いた、と言われ伝説化した。 なお、1936年秋季リーグから白石は1番・遊撃手のレギュラーとなり、打率.214(32位)ながらチーム3位の12得点を挙げ巨人の初優勝に貢献する。その後も、1・2番の上位打順を打つ傍ら、不動の遊撃手として巨人の第一次黄金時代の一翼を担った。この間、1938年春季リーグでは.302の高打率を挙げてリーグ6位に入ったほか、1940年.264(7位)、1941年.267(首位打者・川上哲治.310に次ぐ2位)、1942年.236(8位)、1943年.248(4位)と、1940年から1943年まで4年連続で打撃ベストテンに名を連ねた。また、1939年の82四球は当時の最多記録となった。
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茂林寺の特訓
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職業野球の東京巨人軍が1936年(昭和11年)9月5日より分福球場で実施したキャンプ練習は、藤本定義監督、三原脩選手兼助監督主導の下、「千本ノック」に代表される血反吐を吐くとまで形容された猛特訓を課された。中でも白石勝巳は一塁手から遊撃手にコンバートされ、熾烈な特訓に嘔吐し失神、さらに顔面に打球を受けてもなお練習を続けようとした「血染めの特訓」が語り草となっている。現在まで綿々と続く巨人軍の基礎を作ったとさえ言われる。「死のキャンプ」と謳われた1979年(昭和54年)オフシーズンの伊東キャンプと並ぶ、ジャイアンツ史上に残る猛特訓であったという。別名「茂林寺の猛練習」。 同年、公式戦初優勝を飾ったことから、同球場は「巨人軍栄光の初V 不屈のG魂誕生の地」として、東武鉄道館林駅の東口正面に石碑が建てられている。
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