岸信介     とは? わかりやすく解説

きし‐のぶすけ【岸信介】


岸信介

岸信介
総理在職期間
第1次昭32. 2.25~昭33. 6.12473
第2次昭33. 6.12~昭35. 7.19769
在職通算日数1,241
総理就任時年齢:60歳・61歳

岸信介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/10 14:19 UTC 版)

岸 信介(きし のぶすけ、1896年明治29年〉11月13日 - 1987年昭和62年〉8月7日)は、日本政治家官僚。1957年から1960年まで内閣総理大臣(第5657代)を務めた。位階勲等正二位大勲位。出生名は佐藤 信介(さとう のぶすけ)。




「岸信介」の続きの解説一覧

岸 信介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 09:48 UTC 版)

国が燃える」の記事における「岸 信介」の解説

商工省における勇介の先輩。後の内閣総理大臣

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岸信介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 20:16 UTC 版)

虹色のトロツキー」の記事における「岸信介」の解説

当時満州国国務院実業総務司長。のちに東條内閣において商工大臣戦後戦犯容疑者となるも復権、のちに首相

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岸信介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:00 UTC 版)

後藤田正晴」の記事における「岸信介」の解説

官僚時代自民党幹事長であった岸信介と対面したことがあるそのときには、岸が大変な素晴らし能力持ち主であるとともに戦争対す反省がないという印象受けた後藤田は、「岸さんの立場になれば言い分はあるだろうな」としながらも、個人的には元戦犯容疑者日本首班になることに対して疑問があったとしている。 田中判決解散にあたって中曽根から獲得議席見通し尋ねられ後藤田20議席は減るだろうと答えたが、第37回衆議院議員総選挙はそれをさらに大きく下回る34議席減となる大敗北を喫し後藤田読み違いにより自民党半数割り込むこととなった。この結果に対して党内責任を問う声が噴出し中曽根進退問題にまで発展したが、党最高顧問となっていた岸が中曽根外交と内政支持したことから、中曽根政権延命した。

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岸信介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:10 UTC 版)

村山富市」の記事における「岸信介」の解説

岸信介首相日米安保条約改定行った1960年村山大分市議会議員だったが国会周辺行われた安保反対デモ参加した。「岸内閣やり方は、民主主義否定するものとい意識強かった」と述懐している。ただ村山首相に就任した直後1995年7月20日国会答弁で、自衛隊合憲認めとともに日米安保条約容認表明し長年日本社会党政策転換行った

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岸信介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 02:06 UTC 版)

児玉誉士夫」の記事における「岸信介」の解説

1954年には、鳩山一郎総理大臣にするために三木武吉画策力を貸した1955年には自由党緒方自由党)と合併して自民党になった誠心誠意嘘をつくなど名言残した三木武吉は病の床で「こだまをよろしく」との言葉を残した。 後その後自民党緊密な関係を保ち長らく最も大きな影響力行使できるフィクサー黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。 岸首相第1次FX問題をめぐる汚職社会党今澄勇追及していた時には等々力児玉私邸二度呼び児玉追及止めるように圧力をかけた。今澄がこれを拒むと、今澄の政治資金提供元と金額・使っている料理屋付き合っている女が全て書かれていた身上調書を今澄に渡して全て明かすとして追及止めさせている。児玉東京スポーツ所有する他に、腹心いくつも雑誌社役員送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日次期総理大臣党人派大野伴睦譲り渡す誓約をした。その立会人児玉であり、河野一郎佐藤栄作署名した誓約書残されている。改定反対する安保闘争阻止するため、岸信介首相自民党木村篤太郎らにヤクザ右翼動員させたが、児玉はその世話役務めた1962年昭和37年)の夏頃から、「(安保闘争のような一朝有事備えて全国博徒親睦大同団結のもとに、反共防波堤となる強固な組織作る」という構想のもと、児玉誉士夫東亜同友会結成試みた結局、同会は結成されなかった。しかし、錦政会稲川裕芳会長北星会・岡村吾一会長東声会町井久之会長らの同意取り付けていた。昭和38年1963年)には、関東関西暴力団の手打ち進め三代目山口組田岡一雄組長町井会長との「兄弟盃」を実現させた。

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