大煙突本体
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大煙突設計の総責任者は当時30歳の宮長平作であった。宮長は大煙突の建設に先立って石岡第一発電所の建設工事を指導していた。石岡第一発電所は施設全般に渡って鉄筋コンクリートが用いられた日本初の発電所建設であり、中でも困難な水路工事、そして世界初の試みとなった鉄筋コンクリート製のサイフォンを建設するといった活躍を見せていた。宮長は石岡第一発電所に続いて、世界一の高さの鉄筋コンクリート煙突の設計という重責を担うことになった。また大煙突の設計図には設計者として宮長のほかに尾崎武洋の名がある。設計の総責任者の宮長は大煙突建設時大阪の久原本部勤務であり、他の業務も担当していたために大煙突建設に専心することが出来ず、尾崎が大煙突建設の現場で常時指揮を執ることになる。 大煙突の設計関係資料としては、設計図と監督官庁である農商務省に建設許可申請時に提出した設計計画書が残っており、構造計算書は見つかっていない。設計計画書では煙突本体と基礎部分、そして煙道について記述されている。煙突本体については煙突の高さや太さ、煙突の壁厚といった煙突の形状の他、鉄筋の種類、配筋の状態、コンクリートの調合などが記載され、基礎部分についても基礎の形状、鉄筋の種類、配筋状態、コンクリートの調合について記載されている。また煙道についてもその形状、鉄筋の種類、配筋状態について記載している。 大煙突の構造計算書は残っていないが、耐震設計は当時地震学の権威として知られた大森房吉の助言があったものと考えられている。日立鉱山の大煙突は欧米諸国の設計、技術援助に頼ることなく、宮長平作に率いられた日立鉱山工作課によって設計、建設が進められた。 煙突の建設場所は製錬所から標高でいうと約200メートル高い場所にある標高328メートル地点に建設された。農商務省に提出した申請書や設計図では500フィート(約152.40メートル)の高さとなっているが、実際に建設された大煙突は上記の経過により511フィート(約155.75メートル)である。大煙突は150フィート(約45.72メートル)までは内筒と外筒の二重構造となっている。大煙突の下部を二重構造とした理由は、製錬所の排煙という高温の排出物から煙突壁面を守るためであった。 大煙突外筒の接地部分の内径は35フィート6インチ(約10.82メートル)、鉄筋コンクリート製の壁面の厚さは2フィート(約0.61メートル)、接地部分の外径は39フィート6インチ(約12.04メートル)である。煙突の内径は250フィート(約76.20メートル)の高さまでは高くなるにつれて減少し、250フィートでは25フィート6インチ(約7.77メートル)となり、それ以上の高さは25フィート6インチで均一とした。壁面の厚さは300フィート(約91.44メートル)までは内径と同じく高くなるにつれて減少し、300フィートで8インチ(約0.20メートル)となり、それ以上の高さは8インチで均一とした。従って煙突の頂上部は内径25フィート6インチ(約7.77メートル)、壁面の厚さ8インチ(約0.20メートル)、外径26フィート10インチ(約8.18メートル)となる。なお、大煙突には避雷針が無かったのではと言われることがあるが、実際には建設時に避雷針が設けられていることが確認できる。 内筒は高さ150フィート(約45.72メートル)であり、接地部分の内径は29フィート2インチ(約8.89メートル)、壁面の厚さは内筒は上下とも変わらず6インチ(約0.15メートル)、接地部分の外径は30フィート2インチ(9.19メートル)である。内筒の頂上部では内径26フィート4インチ(約8.02メートル)、外径は27フィート4インチ(約8.33メートル)となる。内筒と外筒とのすき間は、接地部分で2フィート8インチ(約0.81メートル)、内筒の最上部で8インチ(約0.20メートル)としていた。 煙突本体の鉄筋はアメリカ製のジョンソンバー(異形鉄筋)を用いた。外形的には鉄筋コンクリート工事の現場で通常用いられている異形鉄筋とほぼ同一のもので、丸鋼に細い針金を巻きつけたような形状の凸部と縦に筋状の凸部があって、コンクリートとの接着力を高める工夫がなされている。鉄筋の成分的には炭素が少なくリンやイオウが多く含まれた軟鋼であった。この異形鉄筋を大煙突外筒では二重に金網を張るように組み込み、内筒は一重にやはり金網を張るよう組み込んだ。組み込んだ鉄筋同士のつなぎ目(継手)は、重ね継手と呼ばれる鉄筋同士を重ね合わせる方式であり、重なり合った部分を亜鉛メッキされたと考えられる針金で幾重にも巻いて結束するというやり方で処理されている。鉄筋同士の重なり部分(定着長)の長さは鉄筋の太さの40倍となっており、これは2017年現在の基準と全く同一である。大正時代の鉄筋コンクリート建築における継手は、ガスパイプを用いて繋いでいたものが主流であるとされ、それ以前は主にブリキ板を丸めたもので繋いでいたと言われており、大正初期に鉄筋コンクリート建築に重ね継手を採用し、しかも継手の長さ基準も現在と同様なものを採用している例は他に見られない。 コンクリートはセメント、砂、砂利などの骨材を、1:1.5:3の割合で混合したものを用いた。なお、当時はまだコンクリートの調合に水量の規定は設けられていなかった。大煙突は後に1993年(平成5年)に大煙突が上部3分の2が倒壊した後に改修がなされており、改修時に倒壊した煙突のコンクリートを検査した結果、セメントの混合比が高い富調合のコンクリートが用いられていることが明らかとなった。大煙突の建設当時セメントは高価な建材であり、このことからも日立鉱山が大煙突建設に思い切った設備投資を行ったことが見えてくる。またコンクリートの圧縮強度の試験を行った結果、建設後約80年を経過した後の調査であるのにも関わらず極めて好成績を示しており、日本建築学会が定めるコンクリート強度の指標(JASS 5)に基づく高強度コンクリートの値を越える圧縮強度を出したサンプルもあった。コンクリートの中性化についても、長い期間製錬所の排煙を排出し続け、約80年間風雨に晒され続けた悪条件にも関わらず、中性化の進行も少なかった。 コンクリートに使用した砂、砂利などについては、砂は当時の新聞によれば磯原海岸から調達したと報道されているが、大煙突崩壊後に行われたコンクリートの検査結果によれば石英、長石、輝石などからなる川砂であると判断された。また砂利は全て砕石であり、閃緑岩や砂岩などが確認された。日立鉱山周辺の地質から、大煙突本体で用いられた砂利は鉱山から掘り出された砕石が活用されたと考えられる。 大煙突本体は監督官庁である農商務省に建設許可申請時に提出した設計計画書において、材料は特に精選したものを用いる計画としており、アメリカから輸入したジョンソンバーの使用、当時高価であったセメントの混合比が高い富混合のコンクリートの使用、そして現在の基準も満足する鉄筋の重ね継手の定着長、やはり基準を凌駕するコンクリート強度などに、大煙突の施工の優秀さが現れている。しかし大煙突建設当時はまだ鉄筋コンクリート建設の黎明期であったため、やはり研究不足であった点も指摘できる。大煙突のコンクリート建築で問題があったのは打ち継目の処理であった。コンクリートを打ち継ぐ場合、コンクリート表面に形成されたレイタンスを除去した上で更にコンクリートを5センチメートル程度はつり取る必要があるとされる。しかし当時、コンクリートの打ち継目処理についての必要性がまだ十分に認識されておらず、処理が全くなされないままでコンクリート打ちがなされたと考えられている。この打ち継目部分の欠陥が、後の1993年(平成5年)に大煙突が上部3分の2が倒壊した原因であると推定されている。
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